枠にはまりたくないと足掻き続ける人生
枠にはまりたくない。
カテゴライズされたくない。
自分は自分である。
という醜い自意識というか、要らないプライドみたいなものを常に抱えて生きてきた。
周りと同化したくない。
群れたくない。
異なりたい。
小説家になりたいとか、コーヒー屋になりたいとか、夢とか目標らしきものはあったけど。
そして、今、カフェ店主をしているわけだけど。
結局のところ根本的で根源的な願い、祈りというのは、自分は周りと違っていたいということなんだろうと。
唯一無二でありたい。
代わりの効かない存在でありたい。
自分を自分として見られたい。
それでいうと、「カフェ」というカテゴリーに収まるのも嫌だし、だから "絲と糸" なんていう何屋さんか分からない名前になっているんだと思う。
生きていると、何かしらの枠にはめられそうになる。
若者。
移住者。
田舎暮らししてる人。
個人事業主。
なんとかというグループの人。
もちろん、そういうタグが付く存在ではあるのだけど、一括りにされるような存在ではない。
という過剰な自意識がある。
きっとnoteを含め、SNSでの発信も「田舎カフェ店主」「元精神疾患患者」「元教師フリーランス」「ミニマリスト」みたいに看板をつけた方が良いのだろう。
実際、2〜3年前はそんな感じだった。
生きるために仕方なかったのもある。
でも、やっぱり常に自分の中に違和感はあって、人間そんな簡単にラベリングできるものではない、という気持ちがどこかにあった。
そして今、なんだかよく分からない発信をしている。
このnoteもとくに一貫性がない。
ただ書きたいことを書きたいときに書いているというような、そんな感じだ。
だから、迷う。
何か自分をラベリングしてしまえば、語ることは決まってくるから、発言にも迷わない。
「田舎カフェ店主」と名乗ってしまえば、その側面のテーマで話せば良い。
でも、それは自分の一部分でしかない、と思ってしまう。
そんなに自分は一面的ではない。
そして、他の田舎でカフェをやっている人とも全く異なる存在だ、と。
たぶん拗らせている。
いろいろと。
別にカテゴライズされたって、ラベリングしたって、その枠だけの人間ではない。
そんなことは明白だ。
むしろ分かりやすくしてくれる一つの道具だと思うくらい、寛大でいてもいい。
だけど、その表面上の枠組みをあてがわれることすら許容できない自分がいる。
なぜなのか。
たぶん、それは枠にはまることで自分を見失ってしまった半生の反省からだ。
小学生、中学生、高校生、大学生。
バスケ部、陸上部、野球部、アカペラサークル。
塾講師、高校教師、ライター、マーケター、カフェ店主。
そういった人生のステージごとに、カテゴライズされ、ラベリングされてきた。
そうすると、不思議なことにその集団然として振る舞っている自分がいた。
野球部の僕は野球部一般の人間だったし、高校教師の僕はやっぱり高校教師のような人間だった。
枠にはまることで、枠に染まる。
そして、自分というものが何なのかわからなくなって、ただの野球部員、ただの教員になる。
たぶん僕は染まりやすい人間だ。
弱い人間だ。
周りからの強い圧を受けると、その圧に押しつぶされて、自分がぷちんと消えてしまう。
残ったのは外の皮だけだ。
会社員になろうものなら、きっと非常に優秀な社畜になれるだろうという自負がある。
そんな自負は要らない。
要らないのだ。
そんな自負は本来誰も持たない自負だろうし、また自負することでもない。
僕も自負したくない。
だから、僕は会社員になるという選択肢を完全に捨てている。
何より怖い。
怖いのだ。
自分が会社員になったことを想像すると、自分を捨てて会社の駒になっているのがありありとイメージできるから。
自分を失うのが怖いのだ。
自分が自分でなくなってしまうのが、恐ろしく怖いのだ。
そうなった経験が、嫌というほどあるからだ。
もう自分を離すまい。
と必死で藁にしがみついている、情けない格好を晒しているのが今の自分だ。
この自意識とか、プライドみたいなものを捨てられたら楽なのかもしれない。
いや、どうだろうか。
それはもはや自分であると言えるんだろうか。
自分ではない自分じゃないのか。
カテゴリーやラベルの仮面を被った、中身は僕でなくても誰でも良いという自分じゃないのか。
ミッキーの着ぐるみの中身は誰でも良い。
だってみんなミッキーに会いに来てるのだから。
中の人に会いに来ているわけではない。
中の人は誰だって良くて、ただミッキー然として振る舞っていればそれでいいわけだ。
周りが「カフェ店主然」として振る舞っている僕を求めているなら、それは僕ではなくても良いということにならないか。
だから、僕は足掻く。
分かりやすい一面だけでなく、裏面や中身までさらけ出していく。
よくわからないnoteも書く。
このnoteを読んで、「よくわからなかった」という感想を抱いた人がいれば、この試みは成功だ。