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"痛み" が日常にあることを忘れない

"痛み" を思い出すことは、つらい。

道で転げて擦り傷を作るのは痛いけれども、つらくはない。

消毒液をして絆創膏を貼れば、それで終わり。

もちろん、痛いけれども。

でも、心の傷は痛いしつらい。

皆んなの前で泣き叫んでしまったことや、初対面で失言をしてしまったこと、空気の読めない発言をしてしまったこと。

思い出すだけで古傷がずきずきと疼き、痛み、そしてつらい。

苦しい。

できれば、思い出すことなく記憶に蓋をしておきたい。

見てみぬふりをしたい。

転んで作った足の擦り傷は思い出すまでもなく痛いが、心の傷は思い出さなければ痛くない。

無かったことにすれば、痛くないしつらくない。

しかし、その心の痛みは日常に溢れていて、気付かないうちに見てみぬふりをしている。

忘れている。


僕はとある仕事の用事で、関係者の人に電話をしたいと申し出た。

でも、その人は一日出張か何かで出ていて、非常に忙しそうだった。

にも関わらず、無理を言ってその日に電話をかけてもらうことになった。

ここからは僕の想像だが、仕事と仕事の合間を縫って、時間を見つけてくれたのだろう。

申し訳ない。

という想いとともに、その人の大切な時間を奪ってしまったと思った。

僕は何よりも自分の時間を大事にしている。

だからこそ相手の時間にも敏感で、その上、忙しい日に貴重な時間を奪ってしまったということに耐えられなかった。

電話の時間まで気が気でなく、少し気が落ち込んでいた。

電話の時間になる。

相手から電話がかかってくる。

「すみません、お忙しいところお時間いただきまして……」

「全然です、全然です!それで、、、」

あれ、全然大丈夫そう。

結果から言って、僕が懸念していた状況というのは杞憂で、それほど気にすることではなかったのだ。

よかった。

と、普通ならここでさっきまでの "痛み" を忘れてしまう。

結果オーライとなった瞬間に、都合よく痛みを忘れて無かったことにしてしまう。

ただ、それが人間という生き物でもある。


僕は、こういった日常に溢れる "痛み" を忘れたくないな、と思う。

もちろん喉元過ぎれば熱さを忘れるで、今は痛くはない。

つらくはない。

でも、痛かったな、つらかったな、ということをしっかりと覚えておきたいのだ。

そうでないと、繰り返してしまうから。

これと同じ痛みを永遠に繰り返してしまいそうになるから。

でも、繰り返してもいい。

繰り返してしまったら、そのときにまたちゃんと「痛かったな」と感じたい。

「つらかったな」と記憶しておきたい。


嬉しかったこと、楽しかったこと、心躍ったことを忘れないことは簡単だ。

なぜなら、そういった気持ちは思い出したいし、覚えておきたいからだ。

一方、"痛み" は簡単に忘れてしまう。

忘れてしまいたいし、無かったことにしてしまいたいからだ。

でも、嬉しかったことも、心苦しかったことも、どちらも僕の大事な感情だ。

気持ちだ。

心だ。

痛かったこと、つらかったことを無かったことにするということは、心の半分を無くしてしまうということである。

僕は、よくモノを無くす。

例えば、ここ一年間でいうとAirPods(ワイヤレスイヤホン)を無くした。

耳からうどん、と言われるあれだ。

AirPodsは片耳でも使えないことはないが、やっぱり両耳ないとなんか気持ち悪い。

右耳、左耳そろって初めてAirPodsである。

まあ、僕は両耳ごそっと無くしたのだが。


僕は、心を無くすとどのような悲劇が待っているのかよく知っている。

かつて心気症という心の病を患って、心を無くした時期がある。

休みなく飯を食う時、寝る時、風呂に入る時、トイレに行く時以外働いて、心を無くした時期がある。

それは、自分の心を置いてけぼりにして、世間の正解を自分の心としたときだ。

社会の正解をあたかも自分の願いであるかのように振る舞ったときだ。

だから、僕はもう僕の心を失いたくない。

一片たりとも忘れたくない。

痛みでさえも。

そのとき一瞬の楽に逃げるために "痛み" を無かったことにすると、より大きな地獄を見ることを知っている。

だから、日常の痛みを忘れたくない。


痛みは敵ではない。

愛すべき自分の一部だ。

手や足や口や耳が体の一部であるように、喜びや嬉しさや悲しみや苦しみは心の一部だ。

目を背けたくなる痛みごと、自分の心を愛してあげよう。

覚えていてあげよう。

その痛みがきっと、自分を本当に願う方向に連れていってくれる。

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今野直倫
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