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ニュースやSNSを見るのがしんどくなってきた

最近、ニュースやSNSを見るのがしんどくなってきた。

YouTubeでニュース番組を点ければ、不倫や性加害や企業の不正ばかり取り上げている。

SNSも同じように、そのニュースの情報を元にした議論が繰り広げられている。

議論と言っていいのかわからない。

罵詈雑言と言ったほうが正確かもしれないし、負の感情の吹き溜まりと言ったほうがより正確かもしれない。

ニュースもSNSもこんな場所だったけ?

もしかしたら、僕の感情が鋭敏になってきたと言うことなのかもしれない。

一方、取り上げる情報、拡散される情報が変化してきたと言えるのかもしれない。

ニュースはともかくTwitterなどのSNSは、もっと面白おかしい場所だった記憶がある。

その面影はもうなくなってしまった。

かつての繁華街がシャッター街になり廃れて、浮浪者が煙草を吸い酒を飲み、喧嘩をしている。

そんな悲しさがある。

寂しさがある。

そのような過去を知っているから、余計に今のニュース、SNSを見ているとしんどくなる。

かつては英気を養っていた場所だった気がするが、反対に生気を吸い取られる場所となってしまった。

そういった議論や喧嘩を楽しんでいる人たちは別として、一般的な感覚のある人はSNSから離れていく気がするのだが、そうでもないのだろうか。

もちろん議論はいいことだと思うが、SNSで本当に意味のある議論ができる気はしない。

むしろ、分断が進むばかりだと思う。

自分と同じ意見を持つ人々が大勢いることが可視化され、「ああ、自分はこうでいいんだ」という変な安心感が醸成されている気がする。

本来議論とは相手と自分の意見をすり合わせ、AでもないBでもない、新たなCという答えを生み出すためのものだと思う。

だが、SNSのリプライや引用リツイートを見ると、そうはなっていない。

「この人の意見は全く正しい!自分も同じ意見だ」

あるいは、

「この人の意見はけしからん!擁護してはいけない!」

という二者択一的で、ただただ自分の意見を援用するために、人の意見があるような状態だと感じている。

果たしてそれは議論と言えるのだろうか?

ある議論に対してのスタンスをAとBの二つに分けたとして、それぞれの派閥が出来上がる。

そして、人々はそれのどちらかに属しているという感覚を得る。

たとえば同性婚は認めるべきか否か、みたいなお題目があったとして、賛成と反対に分かれる。

自分は賛成だ。

自分は反対だ。

そして、あの人の意見は全く正しい、自分もそう思う、もっとやれもっとやれ。

と加勢をする。

果たして本当にそれは自分の意見なのだろうか?

意見とはAとBに綺麗に分けられるものではないと思っている。

たとえ賛成派だったとしても、その賛成派の1さんと2さんと3さんの間には、必ずどこかに相違があるはずだ。

なぜなら、全ての人は同じように育ってきていないからだ。

生まれも育ちも違う。

付き合ってきた人間も違う。

国や地域といったバックボーンも違う。

だから、意見が100%同じになることなんてあり得ないのだ。

SNSの議論とはまやかしだ。

世界が2つに分断されているような錯覚に陥し入れ、人々を扇動する装置だ。

あなたが支持しているあの人とあなたは、明確に違う。

本来はそこの差異を話し合いすり合わせ、AでもないBでもないCという答えを出すために、議論というのはあるべきだ。

本当の議論はSNS上では生まれない、という確信が僕にはある。

生まれるのは憎悪と一時的な快楽と疲労だけだ。

僕はそんなSNSに心底疲れてしまった。

きっとSNSを使うか否かの話で、1500文字も使って思考する人はそんなに数は多くない。

だからきっと疲れるのだろう。

考えなければいい。

ただただ時代の流れに流されに流されて、右へ左へゆらゆら揺れていれば、流れるプールに流されるように疲労しないのだろう。

だけれども、僕はどうしてもその流れに逆らい、その場に留まろうとしてしまう。

だから疲れる。

でも、そうしないと自分というものが無くなってしまう気がするのだ。

他の誰かと全く同じ意見であるかのように思い込み、無意識のうちに自分がなくなる。

その他大勢と全く同じ考えであるかのような錯覚をして、そしてそれに自分でも気付かないということになってしまいそうな気がする。

それは、僕にとってとても恐ろしいことで、最も避けたいことだ。

だから、抗い続ける。

その抗いの一つとして、僕は最近きっと僕以外にほとんど誰もやっていないだろうというゲームをしている。

「レミュオールの錬金術師」というスマホゲームなのだが、いわゆる "やり込みゲー" という類のゲームだろう。

スマホゲームなのに、一切、他のプレイヤーと交わることがない。

ただ、このゲームの世界で自由に遊び、極めるというだけだ。

実社会には何も及ぼさない。

ゲームを頑張ったからといって友達ができるわけではないし、お金が増えるわけではないし、何かランキングとして世界に認められるわけでもない。

だが、それがいい。

このゲームをやっている間は、外界の一切をシャットアウトして、ぽつんとひとりぼっちになることができる。

時代の流れの中に、止まることができる。

こうして僕は今日も流れに逆らい続ける。

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今野直倫
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