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違和感をちゃんと口にする。なかったことにしない。

僕たちは違和感を覚えた時に、それを飲み込んでしまいがちだ。

とくに日常の些細なことなら尚更。

人生の大きな分岐点においてさえも、違和感をなかったことにしてしまうことが多々ある。

その原因は、周りとの調和を重んじるあまりであったり、自分が否定されて傷つきたくないであったり、相手を信じ切ってしまうであったりする。

たとえば、クラスで文化祭の催し物を決めるとする。

自分以外のところで話が盛り上がってしまい、あれよあれよといううちにノリと勢いで内容が決まっていく。

自分は置いてけぼりになる。

でも、それを側から見ていて(聞いていて)、何だか納得できていないんだよなぁという自分がいる。

そんなときに、

「ちょっと待って。それはなんか違くない?」

と言えるほど、僕たちは強くない。

大抵の場合、「お前はどう思う?」と問われたとしても、作り笑いを浮かべて甘んじて受け入れてしまう。

その違和感はなかったことにしてしまう。

それが本当に良くない。

どんな些細なことであってもだ。

その小さなほつれ穴から、ほつれは広がっていき、ついにはボロボロのクタクタになってしまう。

元の立派なセーターはどこにいったのか?

もはや原型を留めない、ボロ雑巾のような姿に成り果ててしまう。

それが僕たちの人生では起こっている。

そして、その僕らの人生をあらぬ方向へと導いてしまう影は、抜き足差し足忍足で少しずつ近づいて来る。

だから油断ができない。

たとえば僕自身の実体験でいうと、相手がいることなので詳細は控えるが、最初はほんの小さな仕事を請け負っただけだった。

そこから、あれよあれよと仕事のサイズが大きくなり(それとともに負担も大きくなり)、気づけば僕の24時間は仕事に支配されていた。

最初は本当に小さなものだった。

それがいくつかのターニングポイントで、あの体が浮遊するような、ふわっと浮くような気持ち悪い感覚を覚えたのだが、その当時の僕はそれをなかったことにした。

違和感をスルーした。

「このまま行ったら、何か良からぬことになるぞ。」

そういった予兆は、違和感となって確かに感じていたのにも関わらず。

それは仕事相手を慮ってのことだったり、世間的な体裁だったり、一般常識に照らし合わせたりといったことで覆い隠された。

いや、自分自身で覆い隠してしまったのだ。

仕事相手が悪いわけでも、世間が悪いわけでも、一般常識というものが悪いわけでも何でもない。

ただただ違和感を見逃した自分に責任がある。

自分の人生に責任を持てるのは自分だけだからだ。

相手は相手でよかろうと思って提案をするわけだし、世間には道理があり、一般常識には社会通念というものがある。

それらは全く自分の意思とは無関係に存在している。

だから、自分を守れるのは自分しかいない。

覚えた違和感をなかったことにしない。

どんなに小さなことでも。

今感じている違和感があるなら、それを言葉にする。

言葉にならなければ、「なんか違うんだよなぁ」でも、「モヤッとするんだよなぁ」でも何でもいい。

とにかく自分が違和感を感じているということを相手に、そして世間に対して公表することが大事だ。

相手や周りは、自分の中に違和感があることを見通すことはできない。

ましてや作り笑いを浮かべて、周囲に同調しているのであれば、なおのことわかるはずがない。

違うということ。

ずれているということ。

気持ちが悪いということ。

その気持ちに蓋をすることはできても、決して消えてなくなるわけではない。

蓋をした鍋の中にはその心がぐつぐつと煮えていて、どこかのタイミングで爆発をするだろう。

だから、そうなる前に解放してあげてほしい。

僕は過去に違和感に蓋をして、なかったことにして、苦しくなった経験が山ほどある。

そのどれもが最初はほんの些細なことだった。

だから、わかる。

その忍び寄る影に気づくと、体がふわっと浮いて心地が悪くなる。

その体感覚が出たら、絶対になかったことにしないで、「それは違う」ということを表明するようにしている。

放っておいて良いことなんて一つもない。

虫歯のようなもので、痛いのを我慢してないもののように振る舞っていれば、虫歯は広がるばかりで治らない。

「痛い。」

と言う。

歯医者に行く。

虫歯をあるものとしてしっかり目を逸らさないで認識することが大事だ。

今過ごしている中で、虫歯がないだろうか?

虫歯をないことにしていないだろうか?

それは一度、胸に手を当てて考えてみてもいいのではないかと思う。

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今野直倫
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