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「なんかいい」を大事にする

僕たちは何かを「良い」と思うとき、意味を考えがちだ。

そのモノのストーリーや背景、価値など。

なになにだから、こうこうこういうふうに良い、という見方をする。

例えば、コーヒーを飲むとき。

「このコーヒーは良い!」

と思うとする。

そのとき、「このコーヒーは美味しいから良い」というふうに思う。

そうでなければ、「このコーヒーはフェアトレードによって輸入されてるから良い」と思うかもしれない。

あるいは店主のコーヒーにまつわる思い出を聞いて、「このコーヒーを飲むとマスターの愛を感じるんだよね」と感傷に浸るかもしれない。

とにかく、「良い」に意味を持たせたがる。

意味を読み取ってしまう、と言ってもいいかもしれない。

それはわるいことではない。

むしろ、僕たち人間が世界のバランスを取るために、良いと思うという気持ちを、意味という土台で支えようとする行いだ。

良い、とだけ言うと何か不安定な感じがする。

天から一本の凧糸で吊るされてゆらゆらと揺れているような心許なさ。

どことなく座りが悪く、気持ち悪さを感じてしまう。

人間は、この世界を理解しようとする。

理解し、把握し、そこに固定することで、自分を安心させようとする。

わからないものは怖い。

例えばサバンナで夜が訪れ、明かりがなく、周りからは野生動物なのか何なのかわからない声が聞こえて、風なのか地鳴りなのかわからない音が響いてこだましている。

そんな状況は落ち着かない。

灯りをつけて確認したくなってしまう。

その声の主がなんなのか、音の源がなんなのかを突き止めたくなる。

突き止めた結果として、たとえそれが獰猛な肉食獣であっても、何か得たいのしれない存在であるよりはマシだ。

逃げればいい。

得体の知れない存在は、何も危害を与えないとしても、それだけで恐怖の対象たり得る。

歳を取ると新しいものを避けるようになるのも、原理は同じだろう。

AI?

そんな恐ろしいものに頼っていたら、世界は悪くなってしまう。

AIが何なのかはよく分からないけど。

という具合に。

だから僕たちはそれが何なのかを解明して、意味付けて、どこかに固定したい。

「これはこういうものである。」

と、世界の一部を理解したものとしたい。

それが人間だ。

人間の本能と言っても良い。

危機察知をするための能力としては、きっと備わっておくべきものだろう。

ただ、何かを「良い」と思うのには、ときとして邪魔になる。

なんかいい。

意味はないけれど。

というものに対して、「良い」と素直に言えなくなってしまう原因でもある。

子供の頃、なんか好きだったお話。

学生の頃に過ごした、なんか好きだった場所。

なんかわからないけど涙が出てしまう景色。

そういった意味もなく、理由もなく、ストーリーもなく「良い」と思うことは、あってもいい。

あってもいい、とする。

あってもいいとすると、心がオープンになり身の回りが「良い」ものに溢れていることに気付く。

僕の住んでいる町は、なんかいいに溢れている。

これらに意味を持たせることはできる。

町の歴史だったり、自然に囲まれることの効能だったり、そのとき感じる感情だったり。

でも、そういったことは基本的には後付けだ。

「良い」と思う気持ちが先で、それを安定されるために意味が生まれる。

固定させるために理由で支える。

そのほうが、自分が安心できるからだ。

誰かに理解を得られやすいからだ。

でも、そもそも「良い」と思う気持ちに、意味なんていらない。

何かで支える必要もない。

他人に理解される必要もない。

自分が「良い」と思う。

ただその事実が尊いのであって、それ以上でもそれ以下でもない。

自分の中に「良い」という感情が生まれたということが、自分の人生にとっては大きな宝物なのである。

それを大事にしたい。

意味がない。

理由がない。

説明できない。

そんなことで、自分の心の奥から湧き上がった「良い」という感情をなかったことにしたくない。

「良い」と思ったことを覚えておく必要もないし、誰かに説明する必要もないし、理解しようとする必要もない。

本来は、そうなのである。

それを心に留めよう。

明日も目に入る「良い」を、ただただ「良い」と感じよう。

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今野直倫
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