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心を自由にする「赦し」の極意(013)
こんにちは、紺野うみです。
人生の中で出会う人というのは、必ずしも「人格者」で「素敵な人」ばかり……というわけにはいきません。
例えば道ですれ違う人や、電車に乗っていて遭遇するような人の中に、あなたの心を嫌な気持ちにさせたり、怒りを感じさせたりするような人が登場することもよくある話。
自分自身がなにか悪いことをしたわけでもないのに、誰かの八つ当たりや憂さ晴らしに、つき合わされてしまうことだってありますよね。
でも、そういうときこそ、一方的にこちらが怒ったり凹んだりするのは、なんだか虚しいし苦しいものです。
だから私は普段から、酷い人に遭遇したときほど、「憐れみと赦し」を意識するようにしているんです。
これは、自分の人生を守り、より幸福に生きていくためのコツでもあるから。
「赦せるかどうか」が
— 紺野うみ(巫女ライター/心の相談屋さん) (@konnoumi) April 23, 2019
人生を大きく変える
赦すことができずにいると
心はその場所に囚われ続け
人を恨み、憎むことで
その歪みのバランスを
保ち続けなくてはならない
自分の心も時が止まったように
苦しみ続けてしまうのです
過ちや罪は認めなくても
「人」を赦すことは
あなたの心を自由にする
今回は、善くない人や状況に「心の自由」を奪われないための、ちょっとした秘訣をお話していきましょう。
時折、出会ってしまう「酷い人」
多分、皆さんも少なからずあるのではないでしょうか。
初対面の名前も知らない誰かに、ちょっとした瞬間に、不快な感情にさせられてしまった経験。
都心の電車内やターミナル駅なんかは、遭遇率が高いですよね!
明らかに悪意を持ってわざとぶつかってきて、謝りもしない人だとか。
自分自身が被害に遭わなくても、人と人とがそういったことでトラブルになっている、殺伐とした様子を見かけることも珍しくありません。
誰だって、そんな人と出会いたいわけではないはず。
でも、そういう人との遭遇を「完全になくしたい」と思っても、それは「そもそも人と接触しない環境」にいない限り、なかなか難しいものです。
じゃあ、そんな出会いがあったときは、どうすればいいの?
嫌な気持ちにさせられたまま、もっと酷いトラブルに巻き込まれないように、黙ってこらえるしかないの?
そんな風に思いますよね。だって、そんなことになったら当然、悔しいですよ。
何も悪いことをしていないのに、どうして一方的にそんなことをされなきゃいけないんだろう、って。
ぐっとこらえたとしても、後味の悪い感情がしばらく残ってしまったりするはず。
「怒り」を凍結させず「憐れみ」に転じる
私だって、そういった「誰かから理不尽なことをされた場合」には、まず一番に「怒り」が沸くことが多いです。人間ですものね。笑
でも、その後にいつも、意識してやっていることがあります。
それが、できるだけ即座に「怒り」→「憐れみ」の変換を行うこと。
「信じられない、なんて酷い人なの!」
ここで終わってしまえば、自分の気持ちはいつまでたっても後味の悪い状態のままですよね。
それでは、どうするかというと……?
「信じられない、なんて酷い人なの!」→「気の毒に、いつもこんな風にイライラしているのかな……」
このような形で、感情を「憐れみ」にシフトするのです。
つまり、そのメカニズムを身も蓋もなく説明すると……。
怒りを怒りという「感情」のまま凍結させないで、「思考」にきちんと橋渡しをしてあげることで、自分の中で「嫌な目に遭ったこと」の理由を探して、その経験を昇華させてあげることができるということなんです。
それだけで終わらずに、次のような「想像」までできたら、かなりの自己コントロール上級者。
「信じられない、なんて酷い人なの!」→「気の毒に、いつもこんな風にイライラしているのかな……」→「どうしてこんなに、乱暴な心になってしまっているんだろう?」→「これまでの人生、嫌なことばかりが続いて心が荒んでしまったのかもしれない」
加えて、次のレベルまで行ったら、もうあまり怖いものは無くなるはず。
「信じられない、なんて酷い人なの!」→「気の毒に、いつもこんな風にイライラしているのかな……」→「どうしてこんなに、乱暴な心になってしまっているんだろう?」→「これまでの人生、嫌なことばかりが続いて心が荒んでしまったのかもしれない」→「自分がこんなことをしてしまう側になっていなくて、本当によかった」→「自分はとっても恵まれて生きているなぁ」
ね?
この流れを行うだけで、自分の中だけでちゃんとその出来事に対して、ある程度の処理ができてしまうわけです。
上手くして「自分は恵まれているんだな」という結論まで到達できれば、理不尽な相手からの悪意や悪行そのものは、自分の中で大して意味を成さなくなります。
人生は分からないものですから、歩んできた環境や出会った人たちに恵まれず、自分の中に愛情を育んでくることができていなかったとしたら、誰がそんな「酷い人」になっていたとしてもおかしくないのです。
そう思えば、むしろ「自分が相手の立場」でないことは、とっても尊くてありがたいことなんですよね。
「酷い人」に気づかされ、学ぶことは多い
世の中を少しでも明るくする言葉たちを、心を込めて多くの方に届けていきたいと思います。 紺野うみの活動を応援していただけますと、大変うれしく思います!