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6人家族が5人家族になったら、家から「111」の人格が消えた。:無料記事

結婚当初、家の中にいるのは2人でした。

2人の娘が生まれて、4人になりました。

わたしの両親と同居を始めて、6人家族になりました。

そして今年6月に親父が亡くなり、5人家族になりました。

父が逝ってから、見事にみんな体調を崩しました。パートナーを亡くした私の母はもちろん、私自身も「意識しないと呼吸できない状態」が1週間続いたり、妻も娘2人も胃腸に不調を訴えたり熱を出したり、同時多発的かつ連鎖的に全員が体調を崩しました。

もう40のおっさんなので喪失の悲痛は何度か味わってきましたし、一番近くにいた肉親がいなくなったらそりゃダメージが大きいのはあたりまえだし、まあしょうがないよな、ゆっくり「喪の仕事」をしながら慣れていくしかないよな、と思っていました。

でも、ですね、そういう雑な話ではなかったのです。

親父がいなくなったことで、わたしの家の中から111の人格が消えていたんです。喪失感がものすごいに決まってたんです。

どういうことか、長めになりますけど、一から説明します。

まず前提として、人は、相対する人によって微妙に、ときにはガラッと人格が変わります。難しい話ではありません。母親と接しているときのあなたと、社長と社長室で話すときのあなたと、近所の子どもと話す時のあなたと、ジムで隣り合ったちょっと好みのタイプの人と偶然手が触れてしまって「すみません」とか顔を赤らめながら焦る時のあなたは、完全に同じあなたではないはずです。恋愛はその最たるもので、吉田美和は「あなたといる時の自分が一番好き」と書きました。

それは原理的に家族内でも同じことですから、たとえば妻と2人でいるときのわたしと、長女と2人でいる時のわたしは微妙に違うわけです。

つまり、接する人の数だけ、少しずつ違う自分が現れる。接する人の数だけちょっとずつ違う人格を持った多面体みたいな存在が、ひとりの人間です。

そして、人の数が増えて「集団」になると、その組み合わせによって、立ち現れる自分の人格の数はどんどん増えていきます。

たとえば、うちの家族内で言えば、

①「私、妻、長女」でいる時の私
②「私、長女、次女」でいる時の私
③「私、母、次女」でいる時の私

それぞれ違う「私」です。

①の私は、次女がいなかった頃のように長女を可愛がるかもしれませんし、②の私は、妻には見せない顔を見せているでしょうし、③の私は、次女からすれば妻と接している時の私と確実に違う雰囲気をまとっているはずです。さらに4人の組み合わせ、5人の組み合わせになれば、また微妙に違う「私」がどんどん現れるわけです。

そんなことを考えていたら、ふと、

「組み合わせによって異なる人格が、家族の人数分あるとしたら、この家にはいくつの人格があるんだろう?」

という疑問が湧いてきました。

さて、文学部文藝専修という算数・数学と最も遠い学部を出た私に「組み合わせ」を優しく教えてくれるのは誰か。chatGTP大先生です。こういう時こそ生成AIの出番です。

質問しました。

わたしの意図を的確に汲み取って定義し、瞬間的に計算を始めてくれました。

計算式そのものは全く解読できませんが、その下の説明はわたしの意図通りです。

一瞬で答えが出ました。組み合わせの総数は26です。

これが何を意味するか。

「2人の組み合わせが10」の意味だけ確認しておきましょう。

1:私と妻
2:私と長女
3:私と次女
4:私と母
5:妻と長女
6:妻と次女
7:妻と母
8:長女と次女
9:長女と母
10:次女と母

これがうちの家族内における「2人になった時の組み合わせ」のすべてです。「相対する人によって人格は変わる」わけですから、上に登場するすべての人は違う人格だと考えて、10×2=20。

「2人になった時の組み合わせ」だけで、5人家族には20の人格があるのです。

同様に、「3人になった時の組み合わせ」「4になった時の組み合わせ」「5人になった時の組み合わせ」で現れる人格の数を、chatGPT先生が出してくれた解に当てはめていきます。

それぞれ、10×3=30、5×4=20、5×1=5。

すべて足すと20+30+20+5=75。

5人の家族の中で立ち現れる人格の総数は75。ここでわたしは少し驚きました。5人家族というのは、75の人格が現れたり隠れたりしながら生活しているのです。

さて、ここまできて、わたしにはもうひとつの疑問が浮かびました。

「ならば、親父がいた6人家族だったときは、うちの中にはいくつの人格があったのだろう?」

「親父を亡くして、うちの中から一体いくつの人格が減ったのだろうか?」

と。

再びchatGPT先生に聞いてみましょう。

理解が早いです。

よどみなくスラスラと計算結果が叩き出されていきます。

はい出ました。6人家族における組み合わせの総数は57。

先ほどと同様に、「2人になった時の組み合わせ」「3人になった時の組み合わせ」「4人になった時の組み合わせ」「5人になった時の組み合わせ」、そして親父を追加した「6人になった時の組み合わせ」で現れる人格の数を、chatGPTの解に当てはめていきます。

15×2=30、20×3=60、15×4=60、6×5=30、1×6=6。

すべて足すと30+60+60+30+6=186。

6人家族の中で立ち現れる人格の総数は186です。

6人家族だったとき、私たちは186の人格が現れたり消えたりしながら生活していたのです。

さて、ここでこの記事のタイトルに辿り着きました。

6人家族が5人家族になって減った人格の数は、186−75=111。

ちょっと、にわかに信じられなかったので、念のため、chatGTP先生に託した計算を手書きで検算してみました。

同じ解になった

やっぱり、親父が死んだことで、わたしの家の中から「111」の人格が消えていたのです。

わたしは、5人の中に残る埋め難い喪失感の正体がわかりました。家族をひとり失うというのは、故人だけを失ったわけではなかった。故人によって現れていた家族全員それぞれの人格ごと失うことだったのです。

人格が違えば別人ですから、ただひとり親父がいなくなったことで、知らないうちに家の中から111人もいなくなっていた。「喪失感」とか、そんな漠然としたものではなかった。確実な、あまりにも巨大な喪失そのものだったのです。人が死ぬということは、「故人によって自分の中に生まれた人格がもう二度と現れなくなった」という喪失を抱えながら生きるということだったのです。

「人は社会的な動物である」という常套句の意味が、実感を伴って再構築されていきます。「ベンチャー企業が創業期のメンバー5人のうち3人が離脱した」みたいなよくあるHARD THINGSの、本当のHARDさを知った気がします。

しかし、それはただ永遠の喪失感に覆われ続けるということなのかというと、そうではないのです。私は、親父を思い出すとき、私の中にいる「親父の前でしか現れなかった自分」の抜け殻を感じます。親父の遺影の前で心が湿り始めるとき、消えたはずの自分の人格の一つが、確かに自分の中に生きていることを知ります。それは、決して悲しいだけではない。心が安らいでいくことですらある。

「あなたは、わたしの中に生きている」
「あなたといっしょに、これからも生きていく」
「あたしの守った心はあなたがくれたもの」

これは、慰めでもスピリチュアルでもない、確たる事実でした。

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