再現性のないグラス
へちかんだグラスというものを買った。
「へちかんだ」とは飛騨の方言で「歪んだ」の意味であるそうだ。吹きガラス職人が手を怪我していたときに歪んだ失敗作にヒントを得て、意図的に整っていない形を完成形としている。だからすべてが一点物である。再現性がなくて、個性がある。展示された数ある中からわたしは懐かしい牛乳瓶のような個体を選んだ。
そこに、コンビニに再現性のある形で並んだ板氷を買ってアイスピックで砕き、再現性のない形にして再現性のない組み合わせで投入し、再現性によって大量生産されたパソコンの無機質なライトを最大光量にして照らす。再現性のなさが浮き彫りになるようで、再現性のない涼しさが漂う。
この一年半くらい写真を撮り続けているが、撮る動機は再現性と無縁である。むしろ一回性を愛でる行為であり、いまこのとき、わたしが、この風景に、心を動かされた。それを記録する。一度きりの瞬間を凍結する。
撮った写真は溶けない氷になる。写真を見た時に溶けるのは見る者の心のほうであり、その心象は再現ではない。同じ本を読み、同じ音楽を聴き、同じ写真を見るのは再現ではなく再生である。再生した時に浮かぶ心象は同じではない。どうしようもなく見る者の心身は刻々と変化するからである。
わたしはビジネス書をつくっている。ビジネスの世界では「再現性」が欠かせざる価値であるとされる。しかし本当は再現などありえないことを誰もが知っている。だから再現「性」と言う。再現っぽいことができますよと謳う。再現とは叶わぬ願いである。
わたしは堂々とした個性を持つこのグラスを気に入っている。これから何度も氷を入れ、液体を垂らし、溶け出す氷とないまぜになった心象を飲み込む。その無数の一度きりを、一回性の象徴のような器が待っている。
すべては一度きりである。
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