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森の緑のほら穴のなか
6月、どんどん草木の香りが緑から深緑になり、森の中の生命感がいよいよ膨らみ、その深さ重さに圧倒されながら、自分が少しづつ森に飲み込まれていくような不思議な気持ちになる、そんな季節、森の中を歩きながら、いままで自分がなぜ、これほどまでに森に来るようになったのかを考えていました。
思えば、20代に渓流釣りの楽しさを覚えてからというものの、ずっと山や森を歩き続けてきました。
その時々で、興味の対象は変化し続け、岩魚や山女魚などの渓流魚から始まり、それらを取り巻く水生昆虫たちや、水生植物に強く関心を向けていた時代がありました。
並行して、川を取り巻く人々の暮らしの営みに関心を持ち、東北各地の夏祭りに訪れていたときもあります。
どっぷりと川を取り巻く環境に浸るために、山で寝泊まりすることを始め、今では長期休みの時は必ずキャンプに行くようにもなりました。
自然に親しむほどに、目を上げると美しい山が見え、頂上を見てみたいと思い、山にも登り始めました。
ふとしたきっかけで出会ったカワセミの美しさに心を奪われ、野鳥の撮影にのめりこむこともありました。
渓流を歩く中で、出合い頭にめぐり合ったツキノワグマの、言いようのない威厳に圧倒され、それ以来、熊鈴を鳴らし、林道を歩きながらも、どこかでまた彼に出会ってみたい自分もいます。
桜の時期に無心に桜を食べるリスに、我を忘れてシャッターを切り続けたことも記憶に新しい事件でした。
釣り、キャンプ、登山、野鳥観察、アニマルトラッキング。
これらのいとなみを一言で言い現わすと、このようなものに分類されるのだと思います。
それでも一方で、自分が森に行く理由は、そのようなカテゴリで括られるものではないような気もしています。
自分が森に行きたいと強く感じるときは、不思議といろいろな危機に直面していた時だった気がします。
仕事の中でどうしても乗り越えられないような壁に向き合ったとき。
生活の悩みが頭から離れなくなってしまったとき。
言語化が難しい悩みを強く感じた時。
家族との関係に行き詰ってしまったとき。
将来の自分の姿が全く見えなくなった時。
そのような時に、自分は「森に行く」という選択をしてきたような気がします。
森に行くと時に、岩魚や野鳥や熊、そしておおきな懐を拡げている大自然そのものと、自分自身の意識がシンクロし、いったい自分が自分なのか、それとも自然そのものが自分なのか、わからなくなる瞬間が、何度か訪れました。その感覚はいつも静かな高揚感を伴い、私を少しだけ、苦しい淵から引きあげてくれるのでした。
そうして考えると、森は私たちが行ける場所にいつもあって、日々の営みに疲れた私たちをだれでも分け隔てなく受け入れ、その中に深く入れば入るほど、柔らかく、私たちを包み込んでくれる、そんな存在なのかもしれません。
困った時に逃げ込むことが出来る場所。自分一人で深く思索が出来る場所。日常の苦しさを一旦脇に置いて、目の前で繰り広げられる、壮大な営みにだけ目を向けることが出来る場所。
もし森がそのような場所なのであれば、私たちがこれまで経験したこと、そしてこれから見るだろう森の姿を語ることは、未来を生きるいくらかの人たちにとって、少し意味のある事のような気がします。
東北地方はとても豊かな自然を抱えています。その広大さから、時には非常に厳しい表情を見せることや、気まぐれに私たちの命を奪おうとすることさえあります。
その強さ厳しさに向き合いながら、何とか生活をし続けるために、いかに共に生きていくかを考え続けることは、私たち東北人に課せられた「業」のようなものなのかもしれません。
私が19歳の時に出会ったある「大人」の人が、酔っぱらいながらこう言いました。
「俺は神様も仏様も信じていない。毎日なんの信仰もなく生きているだけだ。
ただ、この世界に『神』みたいなものがいるのだとしたら、それはたぶん『自然』そのものなんじゃないかと思う。その『神』は、人間が良いことをすればそれに応えてくれるし、人間が悪いことをすれば必ず罰を与えてくれる。こんなに正しく人間の営みを正してくれようとするものは、ほかにはないんじゃないかと思う。」
そのときに、私は頭を殴られたように、自分の価値観が大きく変化したことを、今でも覚えています。
私たちは知らず知らずのうちに、人間が中心の街の中で、あたかも自分たちが、この世界の中心のような気持ちで生きていたのかもしれません。
人が自然をコントロールして、そのなかで生活を営んでいるなんて、全くおこがましい話だということ。私たちの命は自然によって生かされていて、それは「神」のような絶対的な力で私たちを支配していること。そんなことがぐるぐる頭の中を回っていきました。
それを考えると、「共存」などという観点ではなく、畏敬の念をもって自然に向き合うことが、私たちにとって当たり前の向き合い方なのではないかと思えてきます。
神社やお寺で手を合わせるように森の中に入ること。人間の価値観ではなく森のルールを知り、お互い配慮しながら同じ時間を過ごすこと。これができて初めて私たちは、自分以外のたくさんの命が満ち溢れる森に抱かれ、日常の悩みや、壁や、自分を見失う恐怖から離れ、すこしだけ、ひと休みすることが出来るのだと思います。
今日も感謝しながら森に入り、たくさんの登場人物に出会うことを楽しみにしながら、目の前に開ける緑のトンネルに、入っていきたいと考えています。
2023年 6月