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街場のカワセミ

 私はもともと森に入った時、その目的はほとんどが魚釣りでした。
 特に源流部のイワナ、ヤマメなど、美しい魚たちと毛鉤で遊んでもらうことが好きで、川に入ると時間を忘れて山の奥へ奥へと入っていきました。。
渓流釣りではさまざまな生き物に出会います。
 ヘビやカエルをはじめ、カモシカ、カワガラス、リス、時には自分と同じくらいのツキノワグマと至近距離で出くわすこともありました。
 その中のひとつにカワセミがいました。

 釣りをする人間にとって、カワセミは特別な存在です。KingFisherという名前の通り、彼らの魚獲りの腕前には目を見張るものがあります。
 渓流で、ごくまれに出会う彼らは、じっと水面を眺めていたかと思うと、突然猛スピードで水面に向かって急降下し、派手な水しぶきを上げて私たちを驚かせます。かと思うといつも間にか、もと居た枝の上に姿を現し、くわえた魚をゆっくり時間をかけてさばき、飲み込んでしまいます。

年に一度か二度、渓流でその姿を見かけるたびに、竿や糸、釣鉤で魚を掛けたり掛けなかったりする自分との力の差に、畏怖の念を感じながら、帰途につくことが多くありました。

 そのカワセミは、私が釣りと同じように野鳥観察に興味を持つきっかけをくれたカワセミでした。
 彼の住み家は、人口100万人を超える都市圏の仙台駅からさして遠くない、小さな沼にありました。
 その日、私は古い双眼鏡とカメラをぶら下げ、こんな街中に野鳥など居るのか、と半信半疑でうろうろ歩いていました。
 しばらく鳥の声を頼りに、近くの森を一周してきた後に、池のふちにいる日焼けした青年が、ひそひそと教えてくれました。
「あそこにいます。あの枝とあそこを、行ったり来たりしていますよ。」
忍び足でゆっくり欄干に近づき、彼の差すほうを見てみますが、どこになにがいるのか、皆目見当もつきません。
「どこですか?」
2,3回聞き直して、何度か水面を覗き込んだのちに、わずか5,6メートル先に、じっ、ととまって、こちらを見ている鮮やかな水色が目に入りました。
 それまで私は野鳥と、それほど長く目を合わせることはありませんでした。
 彼は沼の流れ出しにある網の上にとまって、じっとこちらを見ています。ほかの鳥たちのように、気配を感じてすぐに逃げてしまうようなことなく、頭を上げたり下げたりしながら、しばらく何か考えています。
 何分経ったか、しばらく息を殺したまま見合った後、ふっ、と彼が鋭く一声上げたかと思うと、強く羽ばたき、背中の青いラインをまばゆく輝かせながら、一本の光線のように水面を横切り、対岸の枝に飛び移りました。
 しばらく彼は尻尾を上げたり下げたりしながら水面をじっと見ています。かと思うと、水面の獲物に向けて、大きく羽ばたき、水しぶきをあげながら水面に突き刺さったかと思うと、すぐにもと居た枝の上に戻り、落ち着いて枝に魚をたたきつけています。
 さっきまでじっと目を見つめていたカワセミが、一瞬で野生の輝きを目の前で見せつける。その躍動感に、しばらく私は息をすることも忘れていたようでした。

 思い起こせば、渓流を毛鉤で釣り上がるときにも、魚が水面を割って毛鉤を加える瞬間に、何回も、同じような感覚を覚えたことがあります。

 都市という、人間が住み慣れた世界にわたしたちは生きています。 人間が住みやすいように作られ、効率よくいろいろな仕事や生活の営みができるこの都市に住み、すっかり安心しているわたしたちは、急に目にする野生の激しさ、強さのようなものに触れることで、動物が本来持っている本能を、呼び起こされ、感情を揺さぶられるのかもしれません。

 この日から、私はこの沼に足しげく通うようになり、ほぼ毎回、数組かのカワセミが顔を見せてくれました。

 2,3か月通ううちに、私はカワセミたちの生活が気になってきました。ちょうど対岸で始まっている都市整備の工事のこと。カワセミたちの寿命や、彼らに適した生息環境のこと。急に雪が降って寒気に覆われた日、彼らが何をしているかということ。彼らの繁殖期はいつで、その時の活動はどのようなものなのかということ。
 私は彼らについて、多くのことを調べ、安心したり、心配したりするようになりました。

 また、しばらく通い詰める中で、自分と同じようにここに通う方がいて、その方々にとってはこの場所が、何よりも大切なものだということも知りました。

 そのおばあさんは、私が通い始めるずいぶん前から、ここに通い詰めているようでした。小さなコンパクトカメラを携えながら、いつもカワセミを探す彼女の姿は、いつも今日初めてカワセミに出会ったときの感動をかみしめているように、大きく開いた瞳と、涼しげな笑顔が印象的でした。

 私たちはいつもカワセミの動きに翻弄されていました。今日はさっきまであそこに留まっていた。そのあと向こうの方向に飛んで行ったから、しばらく戻らないんじゃないかと思う。とか、さっき上の池で見かけたから、そろそろこっちに来るはずだ、とか、カワセミの動向に一喜一憂しながらおろおろするのを、いかにも楽しんでいるようでした。

 そんな状態でしたから、私も彼女も、日々カワセミたちの暮らしについて、同じように思いを巡らしていたことは間違いありません。

 1月、少し雪が降りはじめ、たまに水面が凍り始めたころ、周辺の木の伐採が始まりました。
 何人かの常連の方から、木を切ることの意味を、疑問に思う声を耳にしました。私自身も、この伐採が本当に必要なものなのか、悩むことが多くなりました。

 数日後、水面に狙いを定めるちょうどいい枝が全部なくなって、カワセミがこの池に来なくなってしまったときに、たまたまおばあさんに出会いました。
 彼女は変わらずコンパクトカメラを携えながら、ゆっくりと沼のほとりを歩いていました。
 「最近は見かけませんね」 なるべく静かにそう声を掛けました。
 「木がなくなっちゃったからね。」いつもと同じように、涼しい顔をして、彼女は言いました。
 「しばらくは来ないね。仕方ないね。」彼女は意外なほどに、落胆も怒りもせずに、静かにその場を立ち去って行きました。

 このときが、彼女の人生の中で、どのようなステージで、このことに彼女がどう向き合っていたのか、知るすべはありません。ただいつもと同じように、挨拶もせずに、気づいたらお互いの姿を見失っていました。
 それでも、そのあと春が来て、カワセミの5月の繁殖期が過ぎ、6月の夏鳥がわたってくる時期を過ぎ、8月のいよいよ秋の空気が吹いてくる今までも、私はこの場所で、彼女とカワセミに合うことが、出来ませんでした。

 春の終わりごろになって、カワセミも彼女も戻ってこないかもしれない、と考えた時に、私は自分の中に、開発に対する憤りのようなものを感じ始めました。
 人間の都合で行われる身勝手な開発に対して、言いようのない怒りすら、感じたことがありました。そしてそのことに対して、何もできない自分の無力さを強く感じていました。

 夏も近い森の中、その後もカワセミを探して歩き続けたある日のこと、ふっと風が収まった森の中、むせるような緑の葉の上に、鮮やかなオレンジ色が現れました。キビタキです。
 その姿はどこか遠くの島か、大陸から渡ってきたとでも言うように華やかで、緑の森の中でひときわ存在感を放っていました。

 私はその時に、改めてあのカワセミの、怖いくらいに硬質に、碧く輝く背中の色を思い出しました。その碧いイメージは、目の前のキビタキの鮮やかなオレンジと強い対比を構成しました。
 その時私は、突然、彼らが今も私の目の届かないところで生きていて、元気に魚を獲っている姿が浮かんできました。
 それはあのおばあさんも同じように、この街のどこかできっと元気に位ている、という確信を得るのに、十分なイメージでした。

 思えば、その鳥がいつまでもその場所にいてくれるなどということは、人間の希望であって、彼らはいつも自分たちが住みやすい環境を目指して行きていく。あえて住みにくい場所を選ぶ理由は一つもなく、自分たちが一番心地よく生きていくことが出来る場所を、本能的にかぎ分けて生きている。
 そうしてそれぞれの生き物が、それぞれのタイミングで、少しづつ干渉したり、遠ざかったりしながら生きていて、その途中、場面場面で出会ういくつもの出会いがあって、だからこそ、そのいちどの出会いが貴重なのだ、ということを、いまさらながら理解することが出来ました。

そのまま私は後ずさりしながら、ゆっくりと振り返り帰途につきました。
森のなかからは、どこからともなく虫たちの声が聞こえ始め、これから始まる夏の暑さを、私たちに知らせてくれているようでした。









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