夕焼けのカスタネット
思い出話です。
小学校一年生の時だった。
ナオチャン(仮)という同級生が居た。
私と同じくらい変わり者で、同じくらいのノロマさで
気の合う友達であり、ライバルのようでもあった。
その日は音楽の授業があり
一年生が習う楽器がカスタネットだった。
先生はみんなに楽器を配るとこう言った。
「ゴムの輪っかを左手の中指にはめて手のひらに乗せましょう
青い板と赤い板がありますね?青い方を上向きに置いてね
青いお空が上、赤い地面が下ですよ!」
説明をしながらみんなをチェックして回る先生。
ところがナオチャンは先生の話をちゃんと聞いていなかったのか
上下を逆に置いていた。
「ナオチャン違うでしょ。青いお空が上ですよ?」
するとナオチャンはすかさずこう言い放った。
「ううん、違うねん。このお空は夕焼けやねん。」
クラスのみんなは一斉に笑い出した。
私も可笑しくて笑ってしまった。
(間違えたのにヘンな言い訳してる~)
先生は困った顔をしていた。
その日の夜、『今日のできごと』を母親に話した。
もちろんナオチャンの失敗エピソードだったのだが、母は
「あらーナオチャンすごいわね~そんな素敵な発想が出来るんやね~」
と、しきりに感心したのだ。
てっきり笑ってくれると思っていた私はびっくりした。
同時に恥ずかしさで胸がいっぱいになった。
(お母さんの反応の方が正しい…)
なぜ自分は笑ってしまったのだろう?
母親のようにナオチャンを褒める方が何だか良いに決まってるのに!
当時の私には独創性や感受性という言葉は思いつかなかったが
子供ながらに母親の着眼点は察する事ができていた気がする。
母親は私が周りの子より変わっていても変に扱わずに慈しんでくれたが
それは我が子だからという訳では無く、他所の子に対してもそうなのだ。
公平で寛容な大人が自分の親であることが誇らしく思えた。
果たしてナオチャンは、私の母親が感じたように
夕焼けという詩的な光景の表現に拘りがあったのかどうかは定かではない。
ただ後から考えれば、間違いに対して咄嗟の言い訳にしても巧妙ではある。
どちらにしてもただ者ではないナオチャンに対し
私はいっそう一目置いたのだった。
ナオチャンとは高校を卒業するまで共に過ごした。
私は美大に進学したが井の中の蛙だった。
氷河期の最中、大学を卒業してニートとワーキングプアを経たのち
何とかまともな職に就いたものの、もはや大それた夢は抱かず
夜中に胡乱な文章を書き散らすただのゲーマーになった。
ナオチャンは地元の企業に就職し
和風モダンな世界観を基調とした趣味人になった。
もう何年も顔を見ていないが
今度会ったら『夕焼けのカスタネット』を覚えているか聞いてみようかな?