お隣韓国の学生は、
カフェで外国の人を見かけると話しかけに行くらしい。英語で。
ずいぶん迷惑な話だ。
かわいそうに、カフェでゆっくりしたいだろうに、
話しかけられちゃうなんて。
でも韓国の学生は
「そうでもしないと英語を話すチャンスがないんだ」と語学学校で出会った私に話してくれた。
しかも、「みんなそうやってるよ!」って。
ホントか?
韓国のカフェは外国人の争奪戦だな。
まぁ、その人は英語を勉強してるし彼の友達もそういう人がいる傾向にあるってことで。
みんながみんなそうじゃないはず。
でも確かに。彼の言うことは間違いではない。
日本も意識しないと英語なんてしゃべらない。
全く必要なない。喋る必要がない。だからこそ意識して英語に向き合わないと全く上達しない。
韓国の方は英語に対する意識が高いようだ。
韓国の学生に限らず語学学校にいた世界から来た学生は貪欲な子が多かった。
学びたい!
話したい!
聞いてもらいたい!
一方私を含めた日本人はどこか冷めてる?
うーん、冷めているわけではないんだけど。
もちろん英語を上達させたくて留学している。
熱き想いがある。
でも完全に私達日本人はそれを胸にしまい込んでいる。むしろそれを察してほしいと思っている。
貪欲な彼らと私達には温度差があった。
日本だったら、その胸に秘めた熱き想い、
それに気がついてもらえてかっこいい!いいねぇ!となるけど。
日本から出たらそれは通用しない。
自分の秘めた想いなど気づいてもらえない。
なぜなら秘めているから!
自分がどんな考えでどんな意見を持っているのか、世界は興味津々。我々の発言を期待して待ち構えている。
そこにぐいぐい行かなければならない。
でも私にはそのぐいぐいはできなかった。
完全に怖気付いている。
英語が話せるかどうかではなく、
とにかく話す。英語が少々間違っていても自分の意見を言う。
そういうことが求められるのが『世界』なのだと
気づいてしまって、余計に怖気づいてしまった。
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