3人の私

弱い私と
私と
弱い私を守る強い私

弱い私は、
すべてを否定する。
だが、それは自分にのみである。
自己肯定感が著しく低下。
生きる理由を簡単に見失う。
極度の構ってちゃん。
弱くなってる私を皆が気づいてると思っていて、その日何らかの心配する声が掛からなかったときは馬鹿みたいに落ち込む。
卑屈になる。
「なんでこの子、誘ってくれなかったの?」
「友達なんじゃないの?」
「私なんかのこと、忘れちゃったの?」
「知り合いが沢山いると、関わりが浅くなった人は忘れるの?」
「じゃあ、今私が友達と思ってる人はみんな私のこと忘れてる?」
「なんで?私のこと嫌いなの?」
「私、ブスだし目立ちたがりやだし。
 目障りだったのかな。嫌だったのかな。
 じゃあ、今まで我慢してくれたのかな。
 悪いことしちゃったなあ。
 申し訳ないなあ」
「もう、関わるのやめるから。
 許して」
こういう被害妄想ってとっても生きにくいんだろうな。
 
強い私は、
すべてを諦める。
辛いことがあったとき、全部吐き出したいと思うとき。
つまり、弱い私が形成されるとき暴走するのを止めてくれる。ちょっと強すぎるけど。
『誰かにこのこと話したい』
「話して何になる?何か利益を生むのか?」
「誰かに吐露したところで、 
 お前の蟠りは消えない。無意味な行為だ」
『泣きそうだ。誰かに抱きしめてほしい』
「泣いて何になる?泣いて解決するのか?」
「そうなら、ここまで引きずらないだろう」
「あと、人前で泣いても相手は困るだけ。
 無意味な行為だ」
すべてを【無意味】としてくれるので、
諦めがつくのが早い。助かってる。
これが正しい解決法かは重要じゃない。
人に当たらないか否かが重要なのだ。
それでも、弱い私の暴走が抑えきれなくなったら、自傷行為で止めるのだ。

私は、
上記二人の私がこの世界に存在するためのただの器に過ぎない。
故に中立の立場なのだ。
二人に干渉はしない。
私の役割は、人間が生きるためにしなくてはならないことを二人に代わって代理で行うこと。食事や排泄、運動、他人との意思疎通、
コミュニティー所属…etc…。
私が意志を持って活動をするとき、
それは上記二人の崩壊を意味する。
故に、何も感じない。
感じたくないという、私の意志。
二人を守る、私の意志なのだ。

私は私達に依存関係が完璧に構築されているため、感情が不安定になったとき、
他人というツールを使わずに解決に当たる。
それが人間としていいか否かと言われたら、
恐らく否だろう。
私の中に私達が構築される前、
その中身は一体何だったのか。
可愛らしい子供の感情だったら、捨てて正解だったかも。



     

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