No.88|百日行願88日目(2024年10月29日)
こんにちは。
百日行願、八十八日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
『全信奉者に告ぐ』
そのようなタイトルを付けたくなりました。今朝の私の気持ちです。
と申しますのも、金光教で(信心する上で)何が大切かを考えてみました。何だと思いますか?
それは「取次」です。と私は思っています。
というかそれしかない。それ以外ない。それ以外は取次でおかげを受けた後に、必要なもの(大切にしたら良いもの)、そう思っているんです。
そしてこれは、金光教と申しましたが、おそらく全宗教に関わる人(信心する人)に当てはまるものとも思っているのです。予感ですが。私は金光教のことしか知りませんのであくまで予感。
でも確信に近い気持ちもあります。そこの辺りを今日は書いてみたいと思います。
私は金光教の家(両親ともに金光教教師)に生まれました。
いつも申し上げておりますが……。とても我が強く、プライドが高い私。ポンコツなのに。だからこそ、学生時代&社会人時代&それから金光教の教師になった後も、苦しみました。それはそれは、生きづらい人生を送っておりました。
それが今なぜ、こんなにも生きやすい毎日を送れているのでしょうか。その原因が『取次』なのです。
取次とは、神様と人(氏子)の間を取り次ぐという意味。
この間を取り次ぐのです。
それが取次で、取次を行う者を『取次者』と言い、金光教の教祖様(ボス)が取次者第1号として道筋を立ててくれました。
私は誰に取り次いでもらったのか。師匠です。
正確には後々師匠となった人。
始めはワケ分からずに、取次を体験していたように思います。(ココだけの話、取次がよく分からず私は金光教の教師になりました。わからなくてもなれちゃうのです、シー)
ここから取次の中身(本質)の話をします。
私の実体験に寄るものです。
なにか(金光教の書籍等)を参照したりとか、そういうものではありません。
まぁ偏っていますし、けれど、私はコレ(私が体験した取次)で助かったという生の話です。
師匠の言葉を借りれば
という一言に尽きます。
それではどうぞ。
本当の取次(金光教での話)
私の命は受けとめられました。受けとめられたのです。
どう受けとめられたのか。わかりやすく箇条書きにしてみます。
ここまで読んでいてどうですか?
金光教の教会にお参りしている人にあえて聞きたいのですが、めちゃんこ教えられていませんか?
金光教にはたっくさんの教えがあります。
それは教祖様がたっくさんの人を助けてきたことから生まれました。
その都度(人が助かるごとに)、助けられた人の心に響いた言葉や大切にすべき言葉(本質)が散りばめられている、そんなバイブルとも呼べるべきものが、金光教にもあるのです。(『金光教経典』と言います)
でもね、私はソレって凶器だと思ったんです。
包丁ってありますよね。
料理に使いますね。便利ですよね。
でもね、人を殺せますよね。
包丁は便利でもあり危険なものでもあるのです。
それと一緒。
金光教の教えも便利に使えば良いのだが、使い方を間違えれば凶器にもなる。凶器と化すのです。
いくつか金光教の教えを上げてみました。ランダムに。
どうですか?
わかります。
それはそうなのですが、、、、、、
それができないから苦しんでいるんでしょうがぁぁぁぁあ
と声を大にして私は言いたい。
というか腹の底から思っていたし(金光教の教師になってから特に)、実際に言っちゃってもいました。
で、周りを見渡せば教える教師ばかりです。
「み教ではね……」
「教祖様の教えを大切に、おかげをいただいていきましょうね」
はぁ~~~~
ですから師匠のお取次(命を受けとめるお取次)は、私の心に衝撃を与えました。何だこれは?と。
でも、
苦しんでいる渦中でソレは分からなかった。後になって気付いたことです。
何も言わないことの多い師匠。
「お届けさせて頂きます」ばかり。(注・これは当時の私のイメージ。真相は後述していますので、そちらを参照してください)
それに不満を感じたこともあります。一度や二度じゃない、何度も。
教えてくださいと言っても、
「今は、教えない」
と言われたこともありました(これは師弟関係になってからのことなので、一般的にはちょっと違う取次かもしれません。でも大切な要素は散りばめられているかと)。
そして、一向に状況が良くならない両親との確執。
何も言われない師匠(辛抱してくださっていたのだと後に知るのですが……)。
そんな私は武蔵小杉教会の御神前で発狂します。
「かみさまなんだろぉ~、だったらなんとかしてみろよぉ~」
お広前で大の字に寝そべりながら、泣き叫びながら。
シーン………………
※俺、ナニやってるんだろうという気分になり、正座し直し、頭を畳にすりつける私
そしてお取次を頂き続けます。
「お届けさせて頂きます」の言葉。
一向に変わらない状況。
数年が経過します。
諦める私……
そんなある日、諦めながらも私は両親とのことをお届けしていたのですが、そんなある日のこと……(2021年の3月)
バシッと言っていただきました。
教えじゃなく、師匠のお気持ち。
これまで命を受けとめ続けてくれた存在からの言葉、そのお気持ち。
だからこそ、私の心に響きました。
ハッとしました。
心からそうだと思えました。
そして翌日、私は言葉のまま(取次で頂いた言葉のまま)動けたのです。心軽く。ドキドキしながらではありましたが、
【(何を言っても伝わらないと思っていた)両親へ、丁寧に伝え続けよう】
そう思えました。
これが私の知る取次です。
最後にもう一度伺います。
金光教では、何が大切だと思いますか?
追伸:感情のままガーと書きました。
伝わりましたでしょうか。
師匠が何も言われなかったというのはあくまで私のイメージです。
その都度言葉をかけてくれていました。
私の耳に入るものもあれば、入らないもの(受け入れたくないもの)も正直、あったように思います。
でもそれらは教えじゃなかった。
労う言葉とか。共感共苦してくださる言葉が主だった。
そんなイメージが強いのです。
だから「命を受けとめる」というのが理解できる。
そして数年経ってのあの言葉。
教え(教祖様が遺された言葉)ではなく、命を受けとめてくれた存在からの言葉(お気持ち)だからこそ、私は動けた。私は動きたいと思えたのです。
そしてこの取次、経験したことのない人にしか現せないもの(命を受けとめられた経験がある人にしか現せないもの)だと思っているのです。
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