No.90|百日行願90日目(2024年10月31日)
こんにちは。
百日行願、九十日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
電話相談。聴けば聴くほどに壮絶な人生。
今日も「命の御礼」を軸に聴かせて頂きました。
まずは反省。
『命の御礼』を打ち出すタイミングが悪かった。
生きたいとは思っていない人へ、
本当は生きていたいけれど「死にたいと思ってしまうほど生きるのが辛い」と感じている人へ、
(電話相談の相手はほとんどがこの状態)
『命の御礼』を打ち出すタイミングはものすごく難しいことだと、あらためて感じました。ましてや、電話で。でもそのことは承知の上で窓口として設けています。【→044-722-0469(金光教武蔵小杉教会の電話相談窓口)】
でもどうしたって「命の御礼」にピントを合わせないといけない日は必ず来るので(それはもう人間ならアタリマエの営みだから)、伝えることは伝えておかないという気持ちではいます。ただ、タイミングがね。難しい。
いつも書いていますが、
悩みAも悩みBも悩みCも「生きているから」感じているのであって、生きているという部分が抜け落ちると、悩みABCにピントが合ってしまうのです。
もう寝ても覚めても、悩みしか見えなくなる。当時の私のように。
そして一向に変わらない現実。諦めたくもなる。
そのときに杖になるのが、命の御礼、つまりご信心だと私は思っているのです。
このピントの修正を、丁寧に、丁寧に神様と私とあなたとで行っていく。「私の受けとめ方がイケないんですか」と思われてしまわないように、丁寧に、丁寧に。
あゝ現実は変わらないけれど今日も命を頂いた。それは事実なのだから御礼を。この感情が1ミリでも湧けば、湧き上がれば、少しは気持ちが浮く、つまり生きやすくなるように思っているのです。
今日の電話口の相手も「本当は人に感謝して生きていきたいんです」と仰られていました。「本当は……」。心の奥底にある神心を引き出してあげるのが私の御役。「あげる」というとなんとも上からのように聞こえてしまうかもしれませんが、心の奥底にある神心、つまり、今いただいている命を「命の御礼を申し上げられる命」に変えてもらうことができたら、生きやすくなるのは火を見るより明らかと思っているので。
そのためには私の辛抱が必要で、言葉を投げかけるタイミングを見誤ってはならないのだと思っています。
と言ってもまあ、人(ましてやポンコツ人間の私)が行うものですので完璧は難しく、神様もそこまで期待していないというのも私の持論。悔やみながら、悩みながら、戸惑いながら、できないながらにできる限りで「一生懸命に」歩を進めていきたいと思っているのも正直な気持ちです。
今日も電話相談を受けることができました。結局は「宗教はちょっと……」ということでお参りは難しそうでしたが、これもなにかの御縁。「また何かあったら電話を」とだけ伝えさえて頂き受話器を置きました。
命に御礼を申し上げられる人間へとお育ていただけますようにと願います。私も油断なきように(命の御礼をし続ける私で在れるように)との願いも併せて。
いかがでしょうか。
追伸:百日行願も早いもので90日。残すところあと10日です。90日間、想いを認めることができたのも有り難いことですね。
思えば10年前、代替わりで何もない(自信も何もない)私は、「3年の行」とい銘打って朝から晩までお結界に座るのと併せて、それまで続けていたブログへの毎日投稿を試み続け終えました。3年ですからトータルで1000記事以上。(ほとんどの記事を消してしまいましたが、何記事かは残してありますので良かったらお目通しのほど)
まだまだ10年ですのでそこまで大きくは変わってないと思いますが(根は同じ)、頂いてきたおかげへの感謝の量(おかげへの深堀り)は日増しに大きくなっている実感はあります。
10年前も今も、がむしゃらという点では変わらないのでしょうけど、それこそ立っている視点は10年前のソレとは明らかに違っているのだろうなぁとも思います。
今はやはり『命の御礼』、それだけですね。このテーマ自体は今後も変わらないにせよ(本質だから)、その深さ(ひいては私が紡ぐ言葉)は今後も日増しに変わっていくのだろうなぁと、そのことを楽しみにしながら日々信心しております。
良ければご一緒にどうですか!
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