No.69|百日行願69日目(2024年10月10日)
こんにちは。
百日行願、六十九日目。
今日も命を頂いております。
ありがとうございます。
より根源的な視点を。
最近は同じようなことしか想っていないし、
喋ってもいない、そう感じます。
それは何かというと、
命の有り難さ、命の尊さ、命の儚さ、
今日命を頂いているという紛れもない奇跡、
そのようなことです。
よく聞く日常の話です。
その人にとっては居ても立っても居られないほどの悩みなのだから、無碍には聞かない、できる限り丁寧に聴くのは聴きますが……。
いつだって私の頭の中には、より根源的な視点に根ざしたおかげを想っています。それが『命』。
そのように考えられたら……。
命あってこその(A)なんだ、(B)なんだ、(C)なんだと想えるはず。
今はそう想えなくても、そう想えるまで信心を進めたら良いだけだと、聴く私が想えているのがどれほどラクで有り難いことかと思います。
そう話している私が完璧にできているかと言ったら……、出来ていません。
出来ていませんし、命を常に有り難いと想える気持ちは、一生涯かけて求めていくことだとも思っています。
今日、心の底から有り難いと想えていても、一晩寝て、明日有り難いと想えている保証はどこにもありませんからね。
その点、金光教の教祖様は晩年、次のように思われた。
私(教祖様)は悟った、悟りきったとは言われなかった。
そんな教祖様が、私は大好きです。
人間はいつだって過ちを犯す存在。
だからこそ、日々の信心(わが心を神に向けること)が必要なのだと思うのです。
というわけで、ここ数年の私の日々は、上に書いたようなことを想いながら(A)だの、(B)だの、(C)だのと思いつつも、あくせく生きている氏子(私も含む)の話を、頂いた命を使って聴かせていただきながら、氏子の心が信心へと誘われるようにと願う、そんな毎日、そして今日でもあります。
いかがでしょうか。
追伸:参られる人の話を聴きながら、神様を想える私はなんと幸せものなのだろうかと最近強く思います。
こんなことがなかったら、勝手気ままに生きて、どこかで野垂れ死んでいた私だということを、私が一番良く分かっていますので。ここに留めておいて頂ける神心(親心)を、切に有り難く思うわけです。
毎日たった1人で広い教会にポツンと座っていて「先生、寂しくないですか?」とたまに聞かれたりもしますが、上に書いたような具合いなので、私は私でここに居らせて頂いて有り難い気持ちでいっぱいなのです。これはマジで。ありがとうございます~。
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