No.55|百日行願55日目(2024年9月26日)

こんにちは。

百日行願、五十五日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

今日お参りされた氏子。
とにかく不平不満が多かった。

誰ソレがどうの。
あそこが痛い。
ココが痛い。
……

そして、わがままですよね~と言いつつも、次の瞬間また不平不満が漏れ出てくる。

身体の痛みや納得できない人への不満など気持ちはものすごくわかるのですが、それでは……

と思いつつも、

相手の感情を吐き出させないと始まらないと思いたち、徹頭徹尾、相手の主張を聴きました。何も言わずに。ニコニコと。

不平不満を聴き続けるのは、とても骨が折れます。

そうじゃないよ、
こうした方が良いよ、
こう考えた方が良いよ、

と手直しする方がどれほど楽なことか、

ということを常々思いますが、
それでは「直された」が先に立って、
自分を見つめての『改まりの心』になりにくいということを私は知っております。※

それは私がとにもかくにも聴いてもらってきた体験から。
逐一直されることなどなかった。
共感共苦で聴き続けてもらってきた。
そして、話して話して話し尽くして……

私の中のコップのドロッドロの液体がなくなりかけたそのときに、
信心とはこういうものだと、
新たな生き方(キレイなお水)を教えて(入れて)いただいたのです。

そして私は改まる心を頂きました。
自発的に改まる日々になりました。
誰に言われるでもなく。

私はそれをこの氏子にも手渡したいとあらためて思ったのです。
何年かかるか、わかりません。
氏子のコップの中の汚い液体がなくなるまで、

それまでお互いに生きているかもわかりません。
おかげを頂くのみです。
命のおかげを。

知っています※と書きながら懺悔します。

今日書いたことが頭では分かってはいても、どうにも腹の底から分かっていないゆえ、これまで何度と無く勇み足で私は何度となく失敗してきました。

もうコップの中の汚泥が無くなっただろうか、
これでもう無くなっただろう、ヨシ……
全然、無くなってはいませんでした。

そして、その氏子は私の目の前から去っていきました。
人が『改まりの心』になるのは、もはや神業です。
自分でやろうとすると無理になる。

お願いしながら丁寧に進めて参りたいと思います。
命を頂いたおかげに御礼を申し上げながら……。

追伸:数日前より『note(ブログのようなWebサービス)』に百日行願をまとめ直しております。

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