No.34|百日行願34日目(2024年9月5日)
おはようございます。
百日行願、三十四日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
今日の私は何を思うのか。命を頂き、何を思うのか。何を伝えたいと思っているのか。そのようなことを日々ツラツラと考えています。
おかげさまで、人前でのお話も緊張しなくなりました。ある人がこんなことを言っていました。
と。
そうなんです。
今、私の中に有るものしか出せません。確かに、緊張していた頃は無いものを出そうとしていました。取り繕う感じ。「私はもっと素晴らしい先生なんだぁ」と。言葉にすると、なんとも小っ恥ずかしい、幼稚な感じがします。
でも、そう思う人も少なくないのかと。誰も彼も、誰かに認められたいと強く思うがゆえ、自分をより大きく見せようと、それを努力と言えば聞こえは良いですが、けれども、無いものを出そうとしている傲慢な思考なのではないかと今は理解しています。
そうとして。私の中にいったい何があるのか。はたまた、何もないのか。
そんなことを考えていると、きまってたどり着くキーワードが今はあります。それが「命」です。もうね、これしかありません。
ご信心を通じて、それから過去の苦々しい体験を通じて、一時は諦めかけていた過去の自分を通じて、今日の今日、『命を頂いている』ということへの感謝の念は私の中に確実にあると確信しております。
それを伝えたい。
今日の命を喜べたなら、苦しむこともない。間違いなく、生きやすくなる。今日の命を喜んでいる人が先を案じることなど考えられません。本気で喜んでいるならね。あくまでも、本気です。
・今日の命、ありがたいけど……、来週〇〇が……
・今日の命、ありがたいと思いたいのに、あの人との関係はどうにかしないと……
違います。
絶対に逆接(けれども、のに)にならないのです。
順接です。体言止め(形容詞止め)がなお良し。
今日も命を頂いた、ありがたい。
なんて有り難いんだろう、今日頂いた命に感謝。私からは以上です。
この感覚を日々研ぎ澄ましていく、それが信心だと思っていまーす。いかがでしょうか。
追伸:私はこのことを伝えていきたいんだなぁと、その気持ちがハッキリしました。伝えることが明確になること、そのこともありがたいのです。
他人の話を聴いていると、ちーっとズレているのがよくわかります。
「あぁこの人、一見、命を喜んでいるように見えて、実は……」。
そう、心配や不安が根っこにある。ちょっと、無理して喜んでいる感じ。ヤセ喜び。
それも稽古にはなるのですが、もっとおかげ頂けると常々思っています。そんな姿がよく見える。これ、他人ですからね。そう、自分のことは……残念ながら見えないのです^^;
すこーしずつズレていく。有難涙にくれていたのに、何か伝えなきゃとか思ってしまっている(重荷にしようとしてしまっている←これはこの文章を書きながら思ったこと、ちょっとは気付けているのかな……)。
なので、私も今も変わらずに、その『ズレのチェック』は日々してもらっていますよ。金光教独自の取次(とりつぎ)でね。それもご信心の中身ですから。
自分のこと?わかりそうでわからないのが人間なのではないでしょうか。だから人は1人では生きてはいけない、と言われていますよね。そんなことも伝えたいのかなぁ……。(ボンヤリと遠くを眺める私……)
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