No.3|百日行願3日目(2024年8月5日)

百日行願、三日目。

50代氏子の訃報。

親からのお届け。
自害とのこと。

ふとよぎる、なぜ?

なぜ、じゃない。

私の祈りが足りなかった?、でもない。

生きているわたしにできることは……。

今日頂いた命への御礼、ただそれだけじゃないか。

生きていればいろいろなことが起こる。
解釈もその都度でコロコロと変わる。

考えれば考えるほど、ドツボにハマり
24時間あっても足りないようにもなる。

でも、私は『考えない』を選んだ。深く考えないことを。
【私自身の命に対しての御礼】を選んだ。

その選択を、ある人は「逃げ」とも表現された。
宗教家としてもっと考えないと、と。

でも思うのです。

わからないならわからないままで置いておく。

それよりも、
今わかっていることがあるのなら、
そこに意識を全集中して、
その行動を愚直に進めた方が良いのではと。

当事者しかり、
どうしたって考えてしまうのは仕方ありません。

それがその人の現状(身の丈)なのだから仕方がありません。

でも、若干でも心を動かせる者の選択が決まっているとはどうしても思えない。
「その人の死をきちんと考えなければそれは逃げですよ」
とは、私は到底思えないのです。

少なくとも今の私には。

その人は、そうするしかなかった。
その人は、自害を選択するしかなかった。
その人の死は、その年齢だった。
その人は、その道を選ぶしかなかったのだ。

もちろん、その間に少しでも関与できたらと……。それは思う。
当然、願ってもいました。

けれど、今の今。
突きつけられた事実を事実として受け入れた後……
私にできることは?と命の使い方を考えたときに
わが命の御礼に全振りすることが
私に課せられた、それこそ信心だと思うのです。

繰り返しますが、
今日頂いた命に御礼を申しあげること。

それをやらずにあれこれ考えることこそ
私は自分が命の御礼から、つまり信心から逃げている状態だと思っています。

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