No.21|百日行願21日目(2024年8月23日)

百日行願、二十一日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

今日はより初歩的なところを。

金光教の教祖様は、
おかげは和賀心にあり
と言われました。

おかげはあなたの外側にはありません。
おかげはあなたの内側にあるのですよ、ということ。

どういうことか。

唐突ですが、
良くないことが起こる。交通事故にしましょう。

このときあなたは何を思うだろうか。

(ケース1)車は大破したけれど、命にも身体的にも問題がなかったとき……
A「さいあく~」
B「車は大破したけれど、命があってよかった」

(ケース2)車は大破し運転していたあなたは重い後遺症を患う結果に……
A「……この先どうやって生きていけばいいんだ」
B「車は大破したし後遺症は残ったけれど、命があってよかった」

Aがほとんどでしょう。

いや、Bで物事を受け止められるのは実に稀有。なかなかいないでしょう。
でも、信心する者はBを目指すのです。

よく、信心したら生活が向上する、ハッピーな出来事が毎日続くんだと、そんなお花畑を想像している人がいらっしゃいますが、私はそうは思わない。

あくまでも、物事の受け止め方が変わるだけ。喜べる人間になる。ただそれだけ。

結果として、ハッピーは続くと思いますよ。
だって、今まであたり前として受け流してきたことが、涙を流して喜べるようになるのですから。

ほっかほかのご飯を頂けるのだって、
暖かいお風呂に入れるのだって、
冷たい麦茶を飲めるのだって、

あぁ、なんてありがたいんだろう……

これが『おかげは和賀心にあり』の世界です。

そして究極が、先の交通事故の例。なかなかないけれど、稀にあるもの。そのときのために信心していると言っても過言ではありません。

信心は転ばぬ先の杖
とも教えられています。

信心なければ、後遺症を抱えた時点でズッコケるでしょう。いや、信心していても、そう簡単ではありません。

人によっては「信心していて、なぜこんなことに……」とか、自分勝手な解釈で幕を閉じる人もいらっしゃいますから。

注:それを見た信心ない家族はどう思うのか。信心なんて意味はない。
今まで時間使って、お金を使って、なんにもなってないじゃないか……

これでそのご家庭の信心は一気に遠のきます。ふ~。

信心するものの努め。
なんでもない毎日を喜んで喜んで喜んで、そうしてお稽古して。
まさかの折にも
「(こんな私にも命を授けてくださって)ありがたい、ありがたい」
と言い切れるか否か。

こういう話を聞くと、自分がまだまだ伸びる伸びしろを持ちあわせているのだと思えるから、私は先が楽しみになるのですけれども……。

これを読んでいるあなたは、いかがでしょうか。

頂いた命のお育てを、切に願っております。

追伸:最初はまさかのときのため、とか思うんですけどね。
信心を続けていきますと、「まさかのときはまさかのときだろう」と思うようになります。思えるようになりました。

なぜなら、今日が死ぬほどありがたいから。そして、明日命を頂いているなんてわからないから。そんな保証はどこにもないから。そう本気で思える。

思えるからこそ、
あぁ、今日も命を頂いて、
万事のお繰り合わせを頂いて、
心の、身体のおかげも頂いて、
なにもかもお恵み頂いて……、
こうして今Facebookの投稿もできているんだもんなぁ。

心からありがたいなぁと思いながら、お読みいただいているあなたに何か伝わればいいなと思いながら書いています。

今日もお読み頂き、ありがとうございまーす♪

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