No.60|百日行願60日目(2024年10月1日)
おはようございます。
百日行願、六十日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
早いもので60日目。あと40日。
まずは60日間、命を紡いでもらってきた。その御礼を。
そしてあと40日間、命を紡いで頂く。
そのようなおかげを頂きたいとのお願いを。
ただ、やっぱり今日一日の御礼を強くしたい、というよりも自分の振る舞い如何で強くすることができる。そして今日一日の御礼を強く出来たら、過去(59日間の命)も未来(40日間の命)も強くなる。そう思います。
信心は、今日神様から頂いた最大にして最高なわが生命というおかげに、どれだけ心向けていけるかのゲームのようなものではないかと思っています。ゲームというワードは、信心を「楽しむ」という意味で使いました。
不安や迷いや焦りや心配も、取越苦労もすべて、
命を頂いた「あと」のこと、ですよね。
ならば、その「まえ」の頂いた命に対して御礼を申していく。
それをより強くしていく。
御礼を申す技術を上達させていく。
それにはお稽古が必要です。実際に声に出すと良いでしょう。
テキストでもそうですが、書いていたら埋まります。
御礼の言葉も言っていたら時間が経ちます。
「そんなことばかりしていられない、私にはほかにやることがあるんだ」という声が聞こえてきそうなのであらためて問いますが、
ほかにやることだって命を頂いた「あと」のことですよね。ね。ね。
おそらく私は、この問答を死ぬまで続けて行くのだろうと。
裏を返せば「これだけ」していけば良いのだと思えております。
楽ですね~。安心です。やることが決まっているということは。
ただ、以前からも申し上げている通り、目の前の氏子(私が伝えるべき相手)は千差万別、家のめぐりも、その人の行いも千差万別ですから、オーダーメイドになるのは必然です。
その度に『この人にあった導きはどんなもんだろうか』と悪戦苦闘しながら進んでいくのも想像できております。その点でのしんどさ、もどかしさはあるのだろうなぁと。
ただ、助からない命はない、というかそもそもで命を頂いたからこそ、私の目の前に現れているわけですから。
そして、その頂いた命を喜べたら助かるわけです。つまりは、命を喜び続けたら、助かり続けるわけです。それだけ、シンプルなんですよね。
私も、師の真剣なお取次を頂いて後、自分の人生を諦めていた人間でしたが、今日もこのように自分の命が喜べる真人間へとお育て頂き、ご恩返しの念が強いですが、誰かのお役に立ちたいと思える人間へとお育て頂きました。
今日頂いた命を、
誰かのために。
あなたのために。
ありがたいことです。
なんとも、もったいないことですね。
追伸:頂いた命を喜び続けたら助かり続ける。ここでも裏を返せば、
『頂いた命を喜べないから苦しい』
なのですが……。
出来ないから私はダメ、ではなくて、聴いて聴いて聴いてもらって、吐き出して、吐き出して、吐き出し続けたその暁に、命を喜べる人間になるのでその辺はご安心を。先にも書きましたが、私もそのようにして頂きました。
追追伸:ここから少し『魂』の話をしますので、興味のある方のみ読み進めてください。
私はお取次をいただき、心の奥にある魂を変えていただきました。というより、魂にかかった膜をとり祓ってもらった感じでしょうか。それが私の実感です。
魂は神様からの頂きものですので、それが汚れてしまうということはないでしょう。めぐりや行いによって、キラッキラの魂に「膜がかかる」という方が適切に思います。
それはどんな悪人でも。(←この感覚がないと話を聴き続けられないと思っています)
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