No.12|百日行願12日目(2024年8月14日)

百日行願、十二日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

信心させて頂いてよかったなと思うこと。色々とあるのですが、一番に思うのは、

どうしようもない自分

自分のことをそう思えるようになったことです。

そして、それがわりかし肯定的にです。どういうことかという説明を今日の投稿でしてみます。

世の中には、
どうしようもない自分
をこれでもかと卑下して、
「あぁ死にたい、消えたい」と思ってしまう人がいます。少なくないかと。

ですが、私が思う「どうしようもない自分」はそれとは違います。

消えたいとも、死にたいとも思いません。
ただ、どうしようもないな~とは思います。

結論から言いますが、これは、
どうしようもない自分でも受け止めてくれる存在がいる
と自覚した上での「ホント、どうしようもないなぁ」と自分のことを思えるかどうかかと。

どうしようもない自分を受け止めてくれる人なんていない……
どうしようもない自分ではいけない、いますぐにでも変わらないと……
どうしようもない自分なんて生きている価値がない、死んだ方がいいのでは……

そうは思わないのです。

それは、つまり、「ほんと、須賀院くんはどうしようもないなぁ」と言われながら(思われながら)でも、「それでもあなたのことが大事なのです」と、まさに無条件の愛に触れたからのこと。

その違いだけかと思います。

たとえば、あなたは、生まれたばかりの赤ん坊を見て、どう思いますか?

おしっこを漏らします。ウンチも漏らすでしょう。でも、大抵の親(真の親にしておきましょう、親のイメージは様々にありますので)なら、この子はどうしようもないなと思いながらも『育ってくれよ、助かってくれよ』と強く願っている反面、たとえば、その赤ちゃんが大きくなって40代にもなってウンチを漏らしたとしても「しょうがないなぁ(それでも……あなたが大事だよ)」という親の愛情、()の部分を、子である私自身が感じられるかどうか。

ご信心を頂くと、もれなく()の部分を強く感じられるようになります。

するとどうなるか……

どうしようもない自分

これが肯定的に受け取れるようになってきます。

それはつまり、生きやすくなるということです。

生きづらいなぁと感じているそこのアナタ。騙されたと思って、教会の門を叩いてみてはいかがでしょうか(実際には、扉を開けて静かに入ってきてくださいね。くれぐれも門は叩かないで)。

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