No.15|百日行願15日目(2024年8月17日)

百日行願、十五日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

願える対象があるというのは、とってもありがたいこと、なかなかないこと、いきなりは作れないものだと思っています。
今日はそんなお話を。

私は普段から、神様、神様~と言っています。
先生、先生~とも言っています。

信心ない人からすれば、奇妙な光景でしょう。

誰にも頼らない、頼りたくない、
自分の力だけで生きていくんだ~という人にとっても、信心とは心の弱い人がとる選択だと映るのでしょうね。

でも、それは、言っているその人が元気だから。と思うのです。

人間というのは浮き沈みがあるもの。人生は波乱万丈とも言う。

私が常々心配しているのは上っているとき、人生を謳歌しているときじゃない。

どちらかというと、落ちたときのこと。
人生オワタと感じるときのことです。

そこで金光教では「信心は転ばぬ先の杖」とか「若い時の信心、老いての楽しみ」とも教えられたりしています。

転ぶというのはコケるということ。
コケちゃったら、あたり前ですが痛いですよね。

それが大転倒だったらどうしますか。
立てないんじゃないですか。
「もういいか……」と諦めてしまいそうです。

はたまた老いるというのは、いろいろなことが出来なくなること。
イライラもするでしょう。
病にも侵されるかもしれない。そのときの気の持ちようは……。

元気なときに信心しておくというのは、そういった意味合いを含んでいるのかと思います。

今元気だから良いけれど、人生何があるかわからないよね~、と。
似たようなニュアンスで「かかりつけ医」がありますが(病で困ったときに信頼できるお医者さんが思い浮かぶかどうか)、でも神様と医者は別物です。お医者さんも所詮は人間ですから。

自分の人生、どこめがけて生きるのかはその人の自由なんですけどね。
願わくば、元気な今のうちから、目に見えない信仰を軸に据えて、信仰心を心の根に張って生きていくというのは、私は自分の人生をより真剣に考えている証だと思っていますし、どうなんでしょうね、ハッキリ言って、信心しない人は自分の人生に無責任だとも思っています。言いすぎでしょうか。

まあ、ちょっと無信心の人がこの文章を読んだとき少しでもイラッとしてくれたら良いなあと思いつつ、イラつく言葉を並べています。

イラッとするってことは、図星の場合が多いですから。(そもそも信心ない人が私の文章を目にする確率は非常に少ないとは思いますが……)

教祖様と同じ時代を生きた氏子が「これはおもしろい」と、まるで小さな子どもが楽しそうなおもちゃを見つけたかのような具合で信心を始められたというエピソードもあるんですよ。「いっちょやってみるか」ってな具合で。私の好きなエピソードです。

ま、入口はなんでも良いのですが、命の授け元である神様を意識しながら日々の命と向き合っていけたなら、今、とるべき選択をなるべく違わず取り続けられるのではないかなぁと思っています。

老婆心ながら。
いかがでしょうか。
今日もたのしく、うれしく、ありがたく。過ごしていきたいものです。もちろん、この先も。

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