No.45|百日行願45日目(2024年9月16日)
おはようございます。
百日行願、四十五日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
命を頂いたことを素直に御礼申せたら良いのに、
辛い状況ではなかなかそれが叶わなかったり……。今日はそんな話を。
・頭が痛い
・腰が痛い
・膝が痛い
・気持ち悪い
・お腹が痛い
・排便がない
・収入が少ない
・上司と反りが合わない
・部下が言うことをきかない
・夫に腹が立つ
・妻が恐い……
そういうそれぞれのケースを抱えつつ、それでも神様から命を頂いていることは事実ですので、御礼が申せたら良いのですが。
良いというのは、理に叶っているから、それが稽古になるから、段々と生きやすくなりますよ、と伝えたいのに……なかなか。
そういう人たち(日々に御礼が申せない人たち)の話を、私は毎日毎日聴いているのです。
いや、生きづらかった私が当事者となり聴いてもらい続けました。
なので、今は聴く立場になっていますが、もともと聴けるから聴くではなく、本来聴けるタマではないのに(今もそんなに変わってはおりませんが)、それでも聴いてもらってきたから、そして生きやすくなってきたから、せめてもの恩返しで聴いているのが半分。
それから私としての稽古として、神様への御礼が大事なんだということを私が死ぬまで忘れないためにも、目の前の人の話を聴かせもらっているのが半分。といったところでしょうか。
その上で、今日考えていることは……、
じゃあどうやったら不平不満が多い人が(命を頂いているのに関わらず、辛い、痛い、と言ってしまう人が:当時の私、油断したら私もいつ何時……というのは付け加えつつ)、ニコニコと神様への御礼を言い続けられることができるだろうか、そのことばかりを考えています。
そのとき、正論パンチで、神様への御礼が足りないからあなたは生きづらいのです、これでは伝わるものも伝わらないというのが今の私の率直な気持ちです。
ではどうするか。正直わかりません。
一つだけ言えるとしたら、機(伝わるチャンス)を伺うこと。そして、その機は、人により千差万別。明日の人もいれば、10年後の人もいるかも知れない。
だから、毎日、ビクビクしながら(緊張しながら)聴いています。でも、それぐらいでちょうどよくて、教師になりたての頃は「なんでこの人はわからないんだ、こんなに言っているのに」って平気で思っていました(当時の傲慢極まりない私をぶん殴ってやりたいです、この素人が!!!と言いつつ)。
今日伝えたいことは、機、伝わるチャンスです。
それも神様のお繰り合わせ。
もう1つだけ言えることは、
その機は誰もにあるということ。何歳になっても。
誰もに確実にあると信じること、私が信じられていることもおかげなのです。
「コイツはいくら言ってもわからない」が私の中にないのがおかげ。あなたにもきっとある。今は未だ、機が熟していないだけ。心からそう思えていますよ。
今日はそんなことを思いました。
あなたの機は熟しているでしょうか。そして、その機を逃さずに、実のあるものにできているでしょうか。