No.77|百日行願77日目(2024年10月18日)

おはようございます。

百日行願、七十七日目。
今日も命を頂きました。

ありがとうございます。

ある哲学書(人生の指南書)を読んでいたら私が言っていることとまったく同じことが書かれていました。

そもそも、私も教えられ、教えられたことを口にしているので私の言葉かと言えばよくわからない節もあるのですが、なんだか安心したのが正直な気持ちです。再確認できた感じ。

何が書かれていたのかと言えば、
人は死んでまた蘇るというもの。
転生ではありません。睡眠です。

毎日眠ります。グースカピーと。それが死んでいるということ。

「寝るのが死ぬだって?」
そんなこと、考えたことあるでしょうか。
多くの人が考えたこともないのでは。

私も信心以前は考えたこともありませんでした。
寝たら起きる、そんなのアタリマエのことだと。

でも今は違います。

眠る。目覚める。今日も命を頂いたのだという実感とともに、言葉にもしています。

この投稿の冒頭をあらためて読んでみてください。
「今日も命を頂きました。」
そう書いてあるでしょう。

人が死ぬことを「永眠」と言ったりします。
字のごとく、永遠に眠るというもの。
私の読んだ哲学書にはもう少しくわしくこの件について書かれていたので、私の理解を深めるためにもココに記しておきたいと思います。

本には次のような問答がありました。引用させて頂きます。

「ただ、永遠の眠りと毎晩の眠りとでは、明らかに一つの違いがある。それは、毎晩の眠りには命があるが、永遠の方には命がない。そうだろう」
「はい、そうですね」
「しかし、その命があるとかないとかという判断は、誰がするのだ?」
「…………?」
「この眠りには命がある。この眠りには命がない。そう判断するわけだな。その判断は誰がするのか、と聞いているのだ」
「…………?」
「お前が眠っているとする。すると、『よく寝ている』と思うのは、お前自身かね」
「いいえ、そんな……」
「そうだろう。眠っている人間がそんなことを思うわけがない。思ったとしたら、それは寝ていない証拠だ」
三郎は深くうなずいた。
「とすれば、永遠の眠りと、普通の眠りの違いを知るのは、本人ではない。周囲の者がそう判定するのだね」
「はい」
「第一な、前後も知らずぐっすりと寝込んでいる人間にとって、その眠りに命があるかないか、そんなことは関係ないだろう」
「…………?」
「それともお前は、寝ている時に、『今よく眠っているけど、それでも命がある、生きているんだ』なんて思ったことがあるか?」
「いえ……そんな……」

引用元:『ヨーガに生きる 中村天風とカリアッパ師の歩み』

人が眠っていて命があるとかないとか決めているのは自分じゃないという理解、この理解で生きることが出来たなら、
「あぁ今日も命を頂いたんだ」
この言葉もスーッと入ってくるかと思います。

つまりは、目覚めて初めて命が有ることを知るということです。これは誰もが。いかがですか。入ってきましたでしょうか。

そしてここからは宗教の範疇ですが、その命は誰が与えているのか、与えてくださっているのか。哲学なら創造主とか造物主とか。サムシンググレートなんて言われたりもするでしょう。

そして宗教では「神様」と言います。
金光教では「天地金乃神様(てんちかねのかみさま)」ですね。

神様から命を頂いているのです。

さらに、金光教では「死んだあとも」と言っているのは、先程あった書籍の問答通りでしょう。グースカピーと眠っていたら『自分では』生きているのか死んでいるのかもわからないのです。

そして、目覚めたら『この世に』命を頂いて、目覚めず亡くなっていたら『あの世に』命を頂いているということ。どちらも神様から頂いているという理解です。

少しわかりにくくなってきたかもしれませんが、全体像を把握しておくと(イメージできると)、あぁ今の私はこんな感じ(ところ)なのね、目覚めて命があるからこの世にいるのね、そのぐらいに思えるのでは(思えると生きるのが楽になる、生きる責任も薄くなる←これは私の実感)と思いつつ、全体像もお話させて頂きました。

もちろん私も信心させて頂き、自分の狂気も見つめさせて頂き、その都度お取次をいただき、教えて頂き、助けて頂き、今頂いている命についてこのように文章にできるようなおかげを頂いていると、ただそれだけです。

最後にいつものように付け加えさせていただきますが、
『命を神様から頂いている』と思えたら何が変わるのか……、

それは、不平不満が無くなるということです。
つまり、生きやすくなるということ。

あゝ、今日も命を頂いてありがたいなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ(亡くなっていたらあの世でしょうけど亡くなっているので意識もありませんからつまりは何も思えません、まさにずーーーーーっっと眠っている状態、でも神様のおかげは頂き続けてえええええ…………永遠につづく)と、

そのように思えていたら、思い悩むこともなくなる(思い悩むことも今よりは少なくなりいずれは無くなる【段階的に】)と、そういうことです。

ということは、裏を返せば、今なにかにつけて思い悩んでいるということは、今日も命を頂いてありがたいなぁぁぁぁぁぁぁが足りないのでしょうね。足りていない状態。
もしくは、その理解すらないか。目覚めるのがアタリマエの状態です。

命の有り難さを感じられる生き方(考え方)になりたいなぁと思った人は、どうぞ金光教武蔵小杉教会へお越しください。1年365日、いつでも私がお結界という場所に座りあなたが来るのを待っていますので、安心していらしてくださいね。神様と共に、あなたのことをお待ちしております。

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※「須賀院崇徳」で出てきます。お気軽にお訪ねくださいね!

追伸:生きているということは、死んでいないということ。死ぬのが怖いという人は、今日の命の有り難さを心から享受できていない人。そう言えます。

今日の命の有り難さを真に感じられている人は、死ぬことを重くは受け止めていない人なのではないでしょうか。

まさに、無かった(難しかった)かもしれない命が、今日有ると事実を理解できたら、自ずと生き易くなると思っております。これが、有り難いという状態ですね。有るのが難しったものが有るという状態。

そしてそれは、信心すれば誰もが手に入れられる心です。そのような状態になれば生き易くもなりますし、有り難い有り難いとニコニコも出来ているでしょうから、親神様も喜ぶという、そういった良い具合いで毎日を過ごせるようになると思いますよ!

一度きりの人生、どうぞ人間らしい生き方を。レッツ信心!!いかがでしょうか^^

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