No.62|百日行願62日目(2024年10月3日)
こんにちは。
百日行願、六十二日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
ある師弟の問答を目にしました。
弟子「気がつくと〇〇ができていません。何か良い方法はないですか。」
師匠「あるよ」
弟子「なんですか?」
師匠「〇〇ができてないと思ったらすればいい」
とてもあたり前のこと。
なのですが、世の中の大半の人がこのあたり前のことができない結果、悩み苦しんで日々を嘆いていることでもあります。
毎日のように私が言っている『命の御礼』もそう。
氏子「気がつくと命の御礼ができていません。何か良い方法は……」
私「気がついたらすればいい」
と、ハッキリとはなかなか言えないのですが……。
いや、でも言ってあげた方が良いのかと思うような気分です。その時の状況(氏子の状況)にもよりますが。
とにかく一緒です。
これが習慣化すれば、命の御礼が身につくというのは一緒のはずなのです。
私も修行者。日々修行している者と自分のことを思っております。そして、これは死ぬまで一生続くものだと思っております。ここは、金光教イズムを多分に受けているものかと。
金光教の教祖様はこの尊いお道を神様の御命により開かれましたが、決して「悟りを開いた」状態で人(縁ある氏子たち)と接しられませんでした。
むしろ人間臭かった。どこまでも。(人間臭い教祖様の姿は私が金光教を好きな理由の1つ)
この方と言えども油断をすればいつお暇が出るか分からぬ
と教祖様。
悟って完成、ではなかった。どこまでも。
ご自身が不完全な人間である以上、油断をすれば(その日の調子で心変わりがあれば)いつお暇が出るか分からぬと。
私は「お暇」を「命」と捉えております。
つまりは神様に御礼ができなくなったら命は命たらしめなくなるもの。そうなったら、たとえ命を頂き、この世に生きていたとしても、わが命を喜べない状態であれば、それは死んだも同然。そのぐらいに思われていたのではないだろうかと。
そのような意味で私の命に対する御礼も死ぬまで一生続く、というか続けないといけないと。
というよりも、その日その日で命という絶大なるおかげを頂かないと、そもそもで神様へ御礼すら申し上げられないわけですから。
卵が先か、ニワトリが先かというような具合でもありますね。ただ油断は禁物ということです。気付いたらすればいいだけ。
とにもかくにも、命の御礼です。
出来ていないなと気付いた瞬間からすればいいだけ。あたりまえのこと。淡々と、進めてまいりたいものです。
いかがでしょうか。
追伸:冒頭の師弟の問答は書籍『中村天風に学ぶ心身統一法 超健康法』に書いてありました。
健康は食だけではいけない。
①心の栄養
②身体の栄養
③魂の栄養
この3つがあって、揃って、はじめて健康になれると。そして、健康のみを目的とした『健康教』にはならないようにとも。
健康になった先に『何をするか(世のため人のために生きる)』がさらに健康に生きる秘訣なのだと、そのようなことを伝えているおもしろい本です。超絶オススメ、よかったらぜひ!!