No.57|百日行願57日目(2024年9月28日)

こんにちは。

百日行願、五十七日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

今日は、脳内をごった返し今現在グチャグチャになっている私の考えを整理するために書きたいと思います。お時間ある人はどうぞお付き合いくださいませ。

次の2つを知りました。観ました。

・戸塚ヨットスクールの『体罰』
・映画『月』(相模原障害者施設殺傷事件がモチーフ)

どちらにも共通していることは、

一生懸命に人と向き合った結果
ということではないかと感じています。

綺麗事だけで人は育ちません。

このことは、自分自身が経験してきたことでもありますし、私が毎日のように悩み苦しむ人と触れていく中(自分も含む)で、言えなくなった、喋れなくなった、どうすることもできなくなった(成す術がなくなった)、
その経験から思うところです。

まずもって、偉そうなことを語るつもりはありません。
語れる私でもありません。
私の素直な気持ちは、
どうしたらいいんだろう、です。

そうとして、どちらのテーマも『やり方』が世の中からバッシングされました(映画『月』のやり方ではなく、障害者施設殺傷事件のやり方)。

方や体罰、
方や殺人。

人と向き合った結果の『やり方』です。
色々と考えさせられます。

殺人は論外……そう言い切れるのでしょうか。
私は正直、迷ってしまいました。

もちろん、自分に何も害がなければ考える余地も多分にあります。
ですが、自分の身が襲われたら、四六時中一緒に居て気は滅入り、その上危害を加えられたりしたならば、それは正当防衛でもあり、自らの身を守る手段として、私はそのようなケースには至らないのかどうなのか。
でも殺してしまっては……。

体罰はどうでしょうか。

ネット上では、戸塚ヨットスクールの体罰を『最終手段』と現している人がいて、私の中でとてもシックリ来ました。

戸塚代表は、体罰は善との主張。真意はこうです。

体罰は良いもの、虐待(暴力)は悪いもの。

戸塚ヨットスクールYouTube

主体が、
・される側にあるか(あなたのため)
・する側にあるか(私のため)
その違い。

体罰は、相手の進歩を目的とした有形力の行使とまで言い切っています。
そして、不快こそが人を育てるという論理。
体罰が必要な子は確実にいると言い切っています。

これも、最終手段なら……、が私の気持ちというか、
というかその場になってみないとわからない、これが私の本音です。

ここで、私の恥部をお話しします。

私はおかげをいただき娘を三人授けて頂きました。そして、娘が言うことを聞かぬとき手を挙げたことがあります。声を荒げたことがあります。

そのとき、自分が怖くなった経験が何度かありました。

「この子のため」と言いつつ、しつけなのかいやいや自分の狂気なのでは、その境界線がわからなくなってしまった。
言葉にするなら見境なく……、そんな実体験です。

とにかく私が未熟であることは言うまでもないことですが、、、

娘たち(とくに長女)には、今でも当時を振り返りながら、言葉にして私の中では絶対にこのことを風化させないようにと、詫び続けています。

それから実親とのこと。父親です。

胸ぐらを掴んで地面に叩きつけました。
たった5年前。忘れもしない、私の40歳の誕生日でした。

干渉(教会のイチイチに口を挟んでくる両親、特に父親=もちろん教会のことを思えばこそなのですが……)してくる親に「いい加減にしろよ」と父親の胸ぐらを掴んで、そして地面に叩きつけました。

メガネが飛んでいました。そして、軽かった。

あれだけ大きな存在だと思っていた父。それが、想像以上に軽かったのです。

言葉にできないほどのショックでした。母からは当時を振り返り「この歳での反抗期はシンドい」と後に聞きました。

子は大きくなり力をつける。
親は年老い力がなくなっていく。
その時期での子どもの反抗期はもう、、、

そのようなどうしようもない私です。

わが身に起きた恐ろしい実体験を経て、そんな自分を見つめながらだからこそ「人と向き合うこと」がどれほど恐ろしいことなのかを肌で感じております。

自分のようなモンスターと対峙するとなったら、それはやっぱり恐い、恐ろしいことと容易に想像できる。ただ、、、向き合いたい。

それは、そんなどうしようもない私から去らずに目の前に居続けてくれた取次者の先生と、それから父と母。両者には感謝してもし尽くせない経験があるからです。

余談ですが、私が落ち着いてから後日両親へ手紙を書きました。

これまでも何度か手紙は書きました。いつもなら詫びの言葉(暴れるような言動を詫びる言葉)がほとんどだったのに、そのときは「こんな私の目の前に居続けてくれてありがとう」と感謝の言葉が出てきました。

それはもう自分でも驚いたのと、それを読んだ両親が心から喜んでくれたのがとても印象的で。今でも忘れられません。それが3年前のことです。

話を戻しますが、人(ときに意思疎通が叶わない人)と向き合うことは並大抵のことではありません。

戸塚ヨットスクールの件なら、親がもうどうしようもないからと手放した(戸塚代表に託した)そういう子たち。
相模原障害者施設殺傷事件の件なら、殺傷事件を起こした犯人。
でしょうか。

今の私の御役では重度の障害者当人と向き合うことはなかなか想像できませんが、あり得るのはその親やその家族でしょう。

でも何があるかわかりません。身内がそうなったら……。私自身がそうなる可能性も。

そんなこんなで今、私の頭の中はグチャグチャです。

今日の投稿からこれだと言い切れることは何一つないのですが、ただ1つ言えることがあるとしたら、

グチャグチャで良いのかな

ということ。

色々なケースに触れること。
私の狂気も1つのケース。
世の中でこれまで起きたことも、これから起きることも1つのケース。

そのときどきで大事なのは本気で「人と向き合っていくこと」。

そして、その「やり方」はその度に、できないながらもできないなりに、真剣に取り組んでいくということ。

そして、周り(とくに遠くの方からやり方を非難する声)は気にしなくても良いのではということ。

最終手段である体罰は、受けた側がどう思っているかどうかが大切ではないかというのを最後に付け加えておきます。

私の娘のことも、娘が「あれは嫌だった」「私のためじゃない」「それはパパの単なる捌け口でしょ」として受け取るなら、ソレをそのまま私は受け止めます。受け止めるしかできませんし、娘の将来を願って受け止めていきたいと思っています。

この辺りの考えを、今後も大切にしていきたいと。そのように思っています。

書いていても、何度読み直しても、どこまでもグチャグチャではありますが、私が今思っていることではあるので、今日思うところとして、また私の恥部をあらためて書かせて頂きました。

グチャグチャな文章を、最後までお読みくださりありがとうございました。

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