No.64|百日行願64日目(2024年10月5日)

おはようございます。

百日行願、六十四日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

来たる11月10日(日)
教祖様の御大祭に併せて開教50年記念大祭を仕えさせて頂きます。

11月10日から逆算して100日前の8月3日に『百日行願』を始めました(何かしないとヤバイとの焦りの気持ちから^^;)。そして、このFacebookでの投稿も早いもので64回目ということ。

64日間、命を頂き続けた実証。
45年間(もう少しで46年間←誕生日が近いということです、お察しください^^)、命を頂き続けた実証です。

これに勝るおかげはないでしょう。

以前にも書きましたが、
私は何度も交通事故に遭いました。
両親との確執もありました。
娘との関係、妻との関係のこと。
人生を諦めかけていた時期もありました。

1つ1つのお繰り合わせ、御縁を頂き続けての45年間、64日間、積み重ねてこられたのだと真摯に神様へ感謝の気持ちを向けたいと、文章を書きながらジンワリと思わせて頂きます。

自分がしてきたのか。
いやいや、何も出来なかった。
もちろん少しは頑張ってきたのかもしれません。
ただ、信心の道に入れば、
神様の御力なくして1分1秒ままならないのが私であると理解できます。

こうして文章を打っているのも、
教会のお結界(けっかい)という場所に座り参られた氏子の話を聴くというのも、
自分がしているようでいてそうではないからこそ、
神様への感謝の念、畏敬の念も生まれてくるのかと、ありがたく思っています。

だって、神様居ないと立ってられないって、神様を外せば生きづらくなるって、怖くないですか。
畏敬の念と書きましたが、畏敬とは畏み敬う(かしこみうやまう)ということで、
「畏み」には「恐れる」とか「恐れ多いと思う」とか「かしこまる」とかそんな意味があります。

イメージとして目上の者へ「ははぁ~」と深々お辞儀するようなあのような状態かと、私は理解しています(もちろん見せかけ、するフリではなく、心からね)。

たいしたことないくせに人一倍プライド高く生きてきた私にとって、信心始めの頃は出鼻をくじかれたようで残念な気持ちになっていましたが、師匠から見て、師匠の目に映る当時の私の姿は、ただただ不思議な生命体として映っていたのだろうなと思うのです。

今日はしんみりと、これまでのことを思い出しながら、言葉を並べてみました。

追伸:不思議な生き物へのアドバイスは一言、「素直に感謝すれば良いのにぃ~」でしょうね。

裏を返せば、

「素直に感謝できないからあなたは生きづらいのぉ~」でしょうね。

素直になれないって可愛そうなこと。素直になれるってと~っても有り難いことなのですよねぇ~。

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