No.18|百日行願18日目(2024年8月20日)

百日行願、十八日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

「恥部(ギャンブル→借金)」を披瀝して良かった……、
そう思えるような反応をいくつか頂いております。

そんな私ですが、今では3人の子をお授け頂いたわけで。
どうしようもない私が、親をやらせてもらっているわけで。
今日はその辺の話を。

どうしようもない、どうしようもないと連呼していても、人生は一切うまくいきません。なにも進みません。でも、どうしようもないのは事実で……。

その、どうしようもない感は受け止めつつ、まったく自信はないのは承知の上で親にならせてもらう、親の御役を担わせてもらうというのが、今、私の中でしっくりきている表現です。

もう少しくわしく説明します。

たとえば……
『お前なんかうちのコじゃない』
子の言動が自分の都合にあわない場合すぐに弾き返すような親
『誰のおかげでご飯が食べられていると思っているの?』
大抵は母親から。「お父さんのおかげで」と言わせたいらしい。感謝しなさいと言わせたいらしい親
『親に向かってその口の聞き方はなんだ?』
敬ってほしい、親っていうのは敬うべき存在と思っている親

そのようなニュアンスで迫ってくる親、
自分が実際に親になるまでは、救いようがない、どうしようもない親だなぁと思っていました。

でも、いざ自分が親にならせてもらって……。
コントロールが効かない感じを日々まざまざと見せつけられて。
でも、操縦しないと日々が回らない。
声も大きくなる。
それから舐められたくない。
「お前」なんか呼ばれた日には……
「親に向かってなんだその口のきき……」、
えっこれって自分が嫌だと思っていたやつ、
そんな感情がワーッと押し寄せてきて。

私の両親との確執も、はじめは隠していました。
自分の親が、自分のおじいちゃんおばあちゃんとバチバチやり合っているのは気分の良いものじゃない。

それを見せるのは、親としてどうなんだ、私の中でそんな葛藤もあったり。

でも、私はご信心をいただいた。
どうしようもない自分を受け入れることができました。
提示することができました。妻にも、子どもにもね。

そして楽になった。
こんな夫です。こんな親です。こんなどうしようもない人間があなたの親なのですが、どうかよろしくお願いします……、
そういう想いがワーッと。
直接、子どもへも伝えました。
今はそんな感じで子どもと接しています。

なのですが……、
ちょくちょく顔を出す私の中の「親観」。
どうしようもないばっかりも言ってられないだろ。
生活していかないといけないだろ。
どうする?どうする?どうする……、と。

そこで、ご信心です。

お届けをします。
今までツラツラ書いてきた得も言われぬ感情を。
私の中にうずまくモヤモヤとした感情を。

聴いてもらいます。
そうしてまた、どうしようもない自分を見せて貰います。
これまでも「そんな私でもおかげ頂いてきたじゃないか」と。

そして私の気持ちが変化する。
できるところを、できないながらに、精一杯させていただくほかない!
……という気持ちになります。

そうしてもらいます。
そうして貰えます。
その力がご信心にはあります。

そしてリスタート。(リスタートだって、命を頂けばこそなのですが……、というあたりまえのおかげにも気付きます)

ちょっと遡って、自分のモヤモヤを整理してみます。
「どうしよう?どうしよう?」って思うってことは、自分の中で「できる人」がチラチラしている証拠かなと。

「どうにかできる」と思っているんだ、どうしようもできないのに。
本来神様のお力いただかないと、ちっとも「どうにかできない」のに。

それから「できない人」と思われたくないって思っている証拠かなと。
まだ、性懲りもなく仮面をかぶっています。

子どもにカッコつけたい私。
尊敬されたい私。
舐められたくない私、
そんなのがチラチラしている。

そうすると『自分の心を神様に向けている』ようで、
【注:ご信心とは『』内のこと】
子どもや周りの人に心向けているだけだったり、
その気付きもまたお取次でいただきます。いただけるのです。

本来、
私のことを周りの人がどう思うかはその人の勝手です。
そんなのコントロールしようがないもの。できないもの。

そうであるならば、ではいったい私はどうしたいのか。
舐められたくないが本心なら、そのままの生活を続けたら良い。

でも……、
楽になりたい、子どもの、人様のお役に立ちたいが本心なら、今の生活をあらためて、どうしようもない自分をまずは神様へ、そして周囲へとさらけ出して、「こんな私ではありますがどうぞよろしくお願いします、がんばりまーす」と伝えたら良いのだと。

そういうことかなと。

親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く

教祖様のみ教え

この教えの意味は、
子どもとして親に触れて
親として子どもに触れて
親子間に挟まれながら、もがきながら、ご信心頂いたらおかげになる

人として大きくなる、お育ていただける

そういうこと。

子どもの立場だけでは半人前、
誰かの親にならせてもらって一人前。

すべては神様と歩ませてもらって一人前を超えて神人(しんじん)になる。

それが人間らしい生き方。

人は親子で成り立っています。
それがどんな親であれ、子であれね。

その間にゆれうごく私はどうなのか、自分を見つめるというのもご信心の大切な要素です。

一生かかっても突き詰めることは困難でしょう。
底が知れません、奥深いものです人間というものは。

ほかでもない、自分自身のこと。だからこそおもしろい……。

いささか話が壮大になってきたので、この辺りで締めたいと思います。

シンプルに、
信心すればおかげになります。

今日一日が、うれしく楽しくありがたい一日となりますように。
陰ながらご祈念させて頂きます。

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