No.24|百日行願24日目(2024年8月26日)
百日行願、二十四日目。
今日も命を頂いています。
ありがとうございました。
今日は、私がお取次(おとりつぎ)を頂くようになって、何を感じたのか。その辺りを書いてみたいと思います。
今から15年前に金光教の教師になるべく、宗教家としての免状をもらうため『金光教学院』という場所へ行きました。勤めていた会社を辞めて。
当時はお取次というものが何なのか、わからなかった。無理もありません。経験したことがなかったのですから。
無事に1年間のカリキュラムを終え、金光教学院でお取次について学び、なんとなくお取次がなんなのか、頭ではわかるようになった。でも、実践は……。よくわからない。卒業してもなお、それが率直な実感です。
ちょうどその頃、後に師匠と仰ぐ1人の金光教教師(取次者:お取次を成す者)と出逢います。そして、教えてもらいました。私自身を練習帳にして。
まずは、生きづらい私という自覚をこれでもかと与えて貰いました。
なんたって、神様と離れすぎていたので。自分の腕を信じていた。それに気付かず生きてきた私。
いやその当時も、気付きたくないと思っていたのでしょう。大いに抗った。生きづらさの根本(神様との乖離)に気付いたら、生活自体が面倒くさくなるからと。
それは変化を恐れていたんだと思います。または、今までの自分を否定することにもなるから。まさに、臭いものに蓋をするように。
自分の生きづらさを避けに避け、私は人にあたります。当たり散らします。
相手の落ち度を見つけては、徹底的に洗い出す。そのことばかりに時間(自分の命)を費やし、明らかになった暁には叱責する。それも執拗に。
こんな生き方が生きやすいわけがない……。今ならよーくわかるのですが(言葉にできるのですが)、当時はなんとも。
そんなめんどくさい私に(こんがらがった私に)、師は付き合ってくださった。とことん。何度も何度も。
私が諦めかけているのに。師は諦めないのです。
何度も何度も。5年経ち、10年が過ぎ……。そして今から3年前の2021年3月。私の中で何かが変わる音がしました。牙城が崩れる音。そう感じたお取次がありました。確かに。
師は、私を含め関わった氏子へ次のようなことを言います。「あなたのためにしているのではない」と。私の周りにいる人のためにしているのだと。
私の周りにいる人のために、溺れている私が、まずは陸に上がらないといけない。陸にあげないといけないと。
そのようなニュアンスで私に立ち向かってくださったと理解しています。親子なら、まずは親。そのまた親がいるならまずはその親。どこまでも川上に。(稀に逆転します。生みの親が子の子になるケースも。)
そうして、当の私が、師のお取次を通して何を感じてきたのか。
一言で言えば『愛』。
愛なんて、なんともクサい言葉ですが、この言葉以上の表現方法を私は知りませんので、あえて使わせて頂きます。
具体的には、
どんな私でもいい!
私はここに居ていい!
どんな私であっても、私は大切にされるべき存在だ!
そのようなセルフイメージが心の奥底から(イメージでは腹の下、丹田たんでんと呼ばれるところあたりから)、ワーーーーッと溢れ出してくるような。
私の中のお取次はこのイメージです。
このセルフイメージを今私は、目の前の、お参りされた氏子へと手渡したい。そのように思っています。そのこと(大切なこと)を学びました。
生き方?
そんな簡単なものじゃない。
考え方?
そんな単純なものでもありません。
すぐには変わらない。
30年生きづらさを抱えてきたなら、向こう30年かかって育て直しをしてもらう、それぐらい壮大な治療なんだと思っています。
私は師から、命を頂いた人間、この世に生を受けた人間が人間らしく生きていくための『天地の道理』を手渡してもらいました。そのように理解しています。
天地の道理は、言ってみたらバトンのようなもの。そのバトンを、また誰かに渡すことが私の使命。
師は、渡して欲しいと願っている。だからこそ、めんどくさい私に立ち向かってくださったのだと。
血の繋がりもない、縁もゆかりも無い私に、ご自身の尊い命を投げ売って立ち向かってくださったのだと。そのように感じています。
お取次で人が助かる。
時間はかかります。
自分の15年を見てきたから、それはわかる。
わかるように、教えて貰いました。実践(実戦)でね。ふ~。
ここまで書いてきて、これは前にも投稿しましたが、さあ、次は私の番だとわかりながらも、まったくもって自信のない私が顔を出します。
それは、狂った私を見てきたから。私の目の前に現れた人があんな(自分みたいな)状態になったら……、逃げたい、怖い、これが正直な気持ちです。
と同時に、できないながらも、できるかぎりに、一生懸命させていただきたい、そんな気持ちもあるのです。
ウソではありません。その気持ちも、師が与えてくれたもの。
変な話ですが、期待されていない、というのもセットで与えてくれました。気負いすぎて私が潰れてしまうぐらいなら……、「そこまであなたには期待していない」と。
それもそれで、私の中では楽になれた師の想いでした。それが、なんともありがたいのです。
期待されていないのですが、頑張ったら頑張った分、その結果、目の前の氏子が「先生(私)に会えて良かった」と言ってくれたなら、師への恩返しになる。
そして、またその人が、「先生(私)の恩返しに……」と、また別の氏子へとその人の尊い命を誰かのために使ってくれたなら。私にとって、これ以上の喜びはないのだろうなぁと、そのようなことを思います。
以上が、私の思うお取次です。
どうですか、究極の人間関係だとは思いませんか。
親子の契にも似た感覚だとは思いませんでしょうか。
本当の親子とは逃げないことなのです。その本当の親としてのイメージも、持てない人が少なくないのではないでしょうか。
親だって人間。仕方ない。これで『愛』は消え失せます。そんなもんじゃない。大切な子どもへ、逃げずに立ち向かったら、遍く感動が待っているのだろうと思います。人として、誰かの親としてね。
追伸:あなたにはまったく期待していませんので。そのことだけは、念を押して、申し伝えさせて頂きます^^
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