No.95|百日行願95日目(2024年11月5日)
おはようございます。
百日行願、九十五日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
今日はある氏子の1年祭。
亡くなってから今日で丸1年のお祭り。
亡くなられた人の妹さんが信心を続けられ、教会へお参りされます。
その亡くなられた人、このFacebookでも何度か書かせていただきましたが、身体に重い症状を抱えられている人でした。
全身アトピー、心臓病、糖尿病etc......
その一家も、
「〇〇が家のめぐりを一人で受けている、かわいそう……」
そう言っていたほど、その亡くなられた人ばかりに「目に見える」難儀が降り掛かっていたような具合いです。
そして、私の座るお結界にも度々お参りされました。
晩年は、身体がしんどすぎてお参りしても常にイライラを隠せない状態でした。
あるときは、おしっこがしたいのにズボンを上手く脱げずに履いていたチノパンを汚してしまいパンツとランニングシャツ1枚で教会の玄関を入ってきたり。
あるときは、探し物が見当たらず、探しているうちに段々イライラしてきて「あ~クソ、絶対入れたはずなのになんで無いんだよぉ~」と、さも私に(誰かに)聞いてもらいたいかのような大声で叫んでいる姿も見させてもらったり。
そのような参拝が続いていたので、万が一も供えて警察に電話する準備もしていました。
でもですね、お参りされるのです。
泣き叫びますが、ひとしきり泣き叫んだ後はツカツカとお結界に来てお届けされるのです。
かわいいなぁと思うのと、なんとかラクにしてあげたいなと思うのと、なんで辛い辛いと言いながらお参りしてしまうのだろうかと思うのと、心が変われば楽になれるのになぁと思うのと、
私の気持ちはないまぜになりながら、私の心もそのままに神様へと向けておりました。
私への暴言もありました。
「あんた、御礼御礼って言うけど、あんたがこの状況になって命の御礼なんか言えるのかよ、やってみろよ、この野郎!!!」
ええ、一度や二度ではありません。
その都度、黙って聴かせて頂きました。
可愛そうだなぁと。
もちろん「私には何も言えない」と思いつつ。
でも、いつしか命の御礼を言わないとおかげにならない
というのも思いつつ。
ここでもないまぜ、グチャグチャ、どうにかして神様状態。
そして、私自身の精神状態でも同じようなことがあったのです。
私も「神様だったらなんとかしてみろよ」と、
このお広前で泣き叫んだことがあります。一度や二度じゃない、何度も。
だからでしょうか。
この亡くなられた人が他人には見えなかった。
でも「わかります~」とも軽々しく言えなかった。
悩みは、やっぱり違うから。
この亡くなられた人、そして私の経験から言えることは、イライラ鬱憤をぶつける場所があることの有り難さ。
そして、やっぱり今日いただいた命の御礼。
私はこのように文章にするまで思えることができました。
じゃあ、その亡くなられた人はどうだったのだろうか。
残念ながら、亡くなった人は金輪際信心が出来ません。
じゃあ、今生きている人、
今日お参りされるその人の妹さんへと受け継ぐほかないのでしょう。
お兄さんの生き様はこうでした。
それでも参っていました。
何が助かりなのでしょうか(その妹さんも身体ではないが心を患っているお届けあり)。
共に考えていきたいです、と。
一人じゃない、
一緒に考え、
一緒に信心を進めてまいりたい、と……。
そのようなお話をしようかと思っております。
11時からの祭典です。おかげいただきます。
追伸:そのお兄ちゃんには、本当に色々なことを教えてもらいました。
つらい人の気持ちの聴き方、とくに身体がつらい人への対応の仕方、神様への祈り方、それから儀式も(その人が亡くなる直前に私は「神霊床(しんれいしょう)」の据え方・進め方を学ぶことができその人からさせてもらっている儀式になりました)。
〇〇さん、ありがとうございました。
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