No.67|百日行願67日目(2024年10月8日)

こんにちは。

百日行願、六十七日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

先日お話しした、溺れている人は溺れている人を助けられない、に派生して……、次のような人は、どうしたって人を助けられないと思っています。

①溺れている人を助けようとしたら自分も溺れそうだと思ってしまう人(勇気の出ない人)
②どうやったら助けられるのだろうかと思ってしまう人(助け方を知らない人)

どういうことか。

勇気の出ない人はそのままで、勇気が出るまで待つしかありません。
一方、助け方を知らない人は致命傷で、
これはもう助け方を学ぶしかありません。
どうやって学ぶのかのお話を今日はします。

シンプルです。

自分が助けてもらったことがあるかどうか

これだけ。
経験あり、か、なしか。それだけ

自分がとにかく溺れている⇒助けてもらった。
溺れながらでもどこを掴んで、どのように引き上げてもらったのか、これを感覚的に知っている。実体験だからわかる。こんな具合い。

この実体験が無い人が「困っている人がいたら助けないと……」といった正義感だけで溺れている人へと向かえば、間違いなく海(川)へと引き吊りこまれ、両者ともに溺れ死ぬのがオチかと。

そうならないために、自分が助けてもらう経験をすること。これがとりわけ大事なのです。と私は思っています。

人はしてもらったことしか出来ない

師の教え

未経験のものには現せない、現すことが不可能、こと人助けにおいては。
シビアですがそのように思っています。

ですから、勇気や『助け方』を知らない人は、無闇矢鱈と溺れている人に関わらない方が、その方が、残酷ではなく、その人(溺れている人)のためでもあるのです。

この辺りをよく知らない人が、正義感だけで突っ込んで、溺れている人に関わる姿を散々っぱら目にしてきました。それは今でも。

私はその都度「あなたは見ない方がいい」「あなたは関わらない方がいい」と伝えてきています。その代わり「ここへ(金光教武蔵小杉教会)連れてきなさい」そう言っています。

それほど、自分が助けられた経験が重要なことだと思っているからです。

いかがでしょうか。

追伸:数年前に確信したことがあります。それが、

自身の底を取次者と共に見てきた自負

私の確信

この一点だけで私は教会に留まっているといえますね。怖さもなにもありません。元気に今日も変わらず御用させて頂けております。根がポンコツでも、どれだけ飽きっぽい私でも。続いている。とっても不思議です^^;

なんだか周りに困った人がいるなと思う人は迷わず『金光教武蔵小杉教会』へご連絡ください【044-722-0469】。

場所(神奈川県川崎市)が遠いというのなら、ご自宅からもっとも近い信頼の置ける(教会にいる取次者が助けれた経験のある)お教会を紹介させて頂きます。

追追伸:なんでこんな話をわざわざするのかと言ったら、助けられたことのない人(助けられた経験が無い人)でも取次者(金光教の教師)になれてしまうから。

おそらく他宗でも同じようなことがあるのでは?←これはあくまで推測ですが……。

こと金光教では本部(岡山県)で1年間修行を積めば誰でも(取次未経験者でも)免状が貰える←これこそ難儀なこと(助かりたい人・助けたい人・どちらも助からない難儀)だと思ってもいます。

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