No.37|百日行願37日目(2024年9月8日)

おはようございます。

百日行願、三十七日目。

今日も命を頂いております。
真にありがとうございます。

私の毎日の投稿を読んでいただき「いつも自問自答されているので素晴らしいです」とありがたいお言葉を頂きました。そんなこんなで今日は『自問自答』について、思うところをツラツラと書いてまいります。

そう言えば、自問自答するようになったのはご信心頂いてから、が顕著です。というか明らか。それまでは自問することなんてなかった。

それまでは(自覚的に信心の道に入るまでは)、ある程度、自分の中に『答え』があって、その答えから導き出した言動を一応自分なりに考えては取っていたように思います。

なので、相反する人ははねのけて、共感する人は受け入れて。そんなことばっかりやっていましたね。これが生きづらさの根っこではないかしらと思うばかりです。

一方で、今は『答え』が無いのかと言われたら、それはあります。天地の道理ですね。人間らしく生きる生き方は教科書として間違いなくある。

じゃあ、なぜ私は日々、自問自答しているのかと言えば……、

その答え(天地の道理)を咀嚼している私がどうしようもなくポンコツだと思えたからのことだと、そのように思い至りました。

思い違いはないか。(おそらくある)
考え違いはないか。(多分ある)
取り違いはないか。(いや、必ずやある)
そう思えば思うほど、
『これで済んだと思いません』という境地に立たされるのです。

『これで済んだと思いません』は、われらがボス教祖・生神金光大神様(いきがみこんこうだいじんさま)が晩年に発せられたお言葉です。

信心は自分を見ること。我が心を神に向けること=見ること見ること自分を見ることにほかならないのです。

だって、神様は見えませんからね(神社によく鏡が置いてありますが、あれは鏡に映った自分を見ないさいよ、という神様からのメッセージなんです、知ってましたか?)。

つまり、信心が進めば進むほど、自分のポンコツさが際立っていくというのは、これも自然なのです。自分のことがよく見えてくる感じ!

そして、そのことを踏まえて私の信心以前だった20年前を思えば(社会人だったなんでもできると調子にノッていた頃を思えば)、

自分があまりにも見えていなかった、見えていないくせに相手ばかりを非難していた、なんと浅はかだったのだろうと思います。反省しています。当時、ご迷惑をおかけした皆々様、真に、すみませんでした。

そうとして(どうとして?)、相手を非難する人の側にいるよりも、常に自問自答している人の側にいる方が、自分の心が穏やかになる、つまり平和になるなんてことは、小学生でもわかることでしょう。どうでしょうか。

今日は『自問自答』について思うところを書いてみました!

追伸:これを読んでいるあなたはどうですか。

誰かを非難する人生を選びますか(耳が痛いとは思いますが、ポンコツである自分を棚に上げてね^^)。

それとも、自分はどうしようもないポンコツな生き物なんだと自覚した上で、私のように自問自答を、つまりご信心を選びますか。

あなたが今日頂いた命で、あなたはどちらを選んでいきたいですか。

思う存分、自問自答してみてくださいな。もちろん私もしますよ!

追追伸:やっぱり、書いた文章に反応があると元気が出ますね。まぁ、所詮、私の独り言(日記)ではあるのですが。

それを読んで、あなたの尊い時間=命を使って読んでみて、そうして、何か感じたこと、わからないと思ったこと(いつもわかりづらくてすみません)、これはいったいどういうことなんだろうかと聞きたいこと(他宗についてもわかる範囲で応えます)、私はそうは思わない(これも嬉しい、自問自答の種になります)等々、コメント欄にあなたのコメントを頂けると私の筆が進みます

ぜひぜひ、よろしくお願いしまーす。

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