No.68|百日行願68日目(2024年10月9日)

こんにちは。

百日行願、六十八日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

【今日はちょっと長いです。2000文字オーバー。】

死を意識する

これは信心を進めさせて頂くうえでの『究極的な課題』であるなぁと思います。

今日も命を頂いたという言葉、その想い。
これ1つとってみても、どれだけ今日命を頂いたことが奇跡的なことなのか、
これが分かっているかどうかにかかっていると思うから。

「今日も命を頂きましたぁ~、ふぁ~」

あくびをしながら言うことだってできます。

もちろん、言わないよりは言った方が良いと思うし、知らないよりは知っておいた方が良い。

というより、人間であるならば知らなければいけないことなのではと、半ば強制的な態度で物申したい気持ちでもあります。

なぜならば、
それだけのもの(命)を今日も
あなたも私も頂いているのだから。

それはあたり前でもなんでもなく、本当に奇跡的なことなのだと思うからです。と同時に、私を含めてこの世に生きる人間が、どこまでそれを思えているのか……、これを問うのが信心ではないかと思います。

こういう話をすると、途端に説教臭くなるので、言い方には十分注意しなければといつも思わされます。

あなたが生きづらいのは命の尊さを分かってないからだ

ではなくて、

命の尊さ、儚さ、かけがえのなさが少しでも分かったら、今よりももっと生きやすくなるよ

でいきたい。と、伝えたい。

けれども、聞かぬ人には荒療法でいかなければならないときもあったり……。ビンタするようにね。

とにもかくにも、言葉を吐く私がどこまで分かっているのかは、いつまでも問い続けていかないとダメだと、それだけはハッキリと、クッキリと確信しております。

おい、須賀院崇徳!ええ、お前は、今日頂いた命の尊さをどれだけ感じているんだ?そうか、尊いと感じているのなら、その心そのままに神へと御礼を申し上げなさい。何時間でも何十時間でもお前の命を使って御礼を申し上げなさい。そして、お前がもし、自分以外の誰かに命の尊さを伝え、かつ神へ御礼を申し上げる人間本来の生き方を伝承していきたいのなら、お前がまずは率先して事に当たるべきだ

私の内なる声

そんな内なる声(神様からのメッセージ)が聞こえてきます。

命は死の裏側にあります。
ならば、
死の裏側に命があるということ。

少し長くなりますが、ココからは死について語っていきます。

『死』について

まず前提として、教祖様は死んだことがないので死後のことはわからないと言っています。言い切っています。これが大前提。

すごい人間的で、私にも理解できる点がありがたい。
(「私は悟ったので死後の世界がわかりますよ」とか胡散臭い言葉を並べる人からは、キッパリと距離をとった方が良いかと……)

その上で、魂は永久不滅

人間は、肉体と魂が合致して生きている。例えるなら、おもちゃと電池。人間が死ぬとは、肉体と魂が分離するだけ。肉体は土へ(日本では火葬し埋骨)、魂は天へと還る。

そして、死者は信心が出来ないと教えてもらっています。

つまりは、心を神様に向けられないと。信心は生きている者だけに与えられた特権。心を神様に向けられるのは、生きている者だけ。

そうとして、これは私の理解ですが、
神様も死者(御霊様)も、
生きている者のために存在している
そう言えるのではないかと。

どういうことか。

もちろん、神も先祖(御霊:みたま)も本来あるべきものではあるのですが、存在すら認めない無信心者がいるのも事実。

その人たちの心には、神も仏も存在し得ない。

ということは、生きている人がどれだけ強く想うかで、神も御霊も呼応するというのが、私の理解です。

死者は何もできません、これが私の理解です。
死んだら何もできない。というより何もない。ずーっと、眠っている状態なのだから。

生まれ変われるというのも期待しない方がいいでしょう。そういった現象が仮にあったとしても、あなたがあなたとして(自覚して)生きられるかどうかは、また別の話ではと、私はそのように思っています。

それから、死んだら天国に行けるとか、安心できる死後の世界とか……。
そのようなものを求めても仕方のないことだ、これも私の理解する『死』です。これが私の思う死生観。

だからこそ、生きている今、何ができるのか、私は何のために生まれてきたのか、これを必死に考え、真剣に考えるというのが、人間本来の生き方である。

こんなのは、至極当然あたり前のことだと私は思っているのですが、いかがでしょうか。

またまた説教臭くなってきましたので、この辺で今日の投稿を閉めたいと思います。お読みくださり、ありがとうございました~。

追伸:「死」というものは生きているうちにしっかりと考えた方が良いのでしょうね。

当然、「死」が腑に落ちていないと(合っている・間違っているはさておいて……。というよりも合っているって誰も決められませんから。誰もが死んだことがないのですから。まぁ、臨死体験者の話は、ある程度参考にしても良いのかとは思いますが、参考程度で。まずはご自身の「死」への理解を腑に落とすことが肝要かと……)、死の直前、死期を感じたときに、それはもう驚くほどバタバタと慌てふためくのが人間ではないかと思っているから。

そんな私も、数年前から強烈に「死」を意識するようになりました。

私はまだ40代ではありますが、明日にでも死ぬ可能性は十分にあり得ます。なんなら今日にでも。

でも、これ(「死」を意識すること)は有り難いことなんだなとも思うのです。死を意識して、初めて今が煌めく、これは本当のことでしょう。そう実感しています。

先の見えない生活を送っていた20代のあの頃よりも、今のほうが活き活きと生きられている実感もありますので。

あとは(ここからは)純度です。
どこまで純粋に「私は死ぬんだ」と思えるかどうなのか。
本気で思えたら、本気で今が煌めくという道理。

心のどこかで「私はまだまだ死なない」「私はまだ死にたくない」と思っていると(思ってしまうと)、今がボヤけるというのも道理なのでしょう。

はい、もちろん私の理解ですから。あくまで、参考にしてくださいね^^

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