No.92|百日行願92日目(2024年11月2日)

こんにちは。

百日行願、九十二日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

今日は『おかげ』について。

信心すればおかげがある

と教祖様。

おかげとは一体?

まずは、壱の型『命』。
そして、
命を喜べる、弐の型『心』。
この二段構えで良いのではないかと思っています。
(わかりやすく鬼滅の刃の技のように現してみました^^)

金光教には『大難を小難に……』という教えがあります。
これは二段構えのうちの、喜べる心の部分。

信心なければ「さいあく~」となっていたことも、「信心あればこそ大難を小難に……、つまりもっと大きな災難になっていたり、死んでいたかもしれないところを、コレだけ小さく済ませてくれた、ありがたや、ははぁ~」と思えた方が良いに決まっているから。ですよね。ココに異論がある人はぜひコメント欄で教えてください。

大難は小難に、なのですが、私はもっと言いたい。
それは二段構えの壱の型の部分。
そう、命です。

怪我した、病気になった、なにか都合の悪い事が起こった、さいあく~と言いたくなることが起こった、なんでも良いのですが、

命、
頂いていますよね?ね?ね?
それのお礼は?
どーしたの?
そういうこと。

この弐の型の前の壱の型を徹底的に鍛えておくと、
大難が小難に……という発想すら無くなるのではと思った次第です。

今朝ほど、掃除中の母が、キッチンテーブルに手を挟んだそうです。よりによって、キッチンテーブルを支えていた父の全体重も母の左手の上に乗っかった。そのおかげで、母の手は腫れに腫れ……。(病院で診てもらった結果、折れてはいませんでした、ありがとうございます)。

このとき「大難は小難に……」なんですけれど(それはそれで有り難い、マジで)、でもね、「生きている」っていうのがあるよなぁと思った次第です。

死んでたら……
なにもないのですから。
あゝ、命頂いているポンコツ人間の我々は、神様から尊い命を頂きながらせっせせっせとあくせく生きているわけでして、ときに怪我をしたり病気を患ったりしているわけですけれど、命を頂いていればこそのことでございます、へへぇ~

そのぐらいに思っておいた方が身のためであるなぁと感じた次第です。
どうでしょうか?

追伸:頑張ってるとか一生懸命やっているとか、信心しているのになぜって、もうね、その前の命はどうした?だれから貰っているの?その御礼はどうした?そんなことばかり浮かんできてしまう、ポンコツかつ自分のことは棚にあげ人間の私であります。

でもね、それもこれも、あなたの身を助けるための杖であるのでしょうね。そう思います。

命を、強く想えば想うほど、命の授け元『神様』へ生きていることのお礼が申せるのですから。怪我も病気も難儀も何もかもそのあと、命いただいたあとのことなのですからね。
一緒にお稽古させて頂きたいと切に願います。

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