No.19|百日行願19日目(2024年8月21日)

百日行願、十九日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

金光教のお取次では「親子」の関係をことさら大切にしています。

人は親から生まれてくる。このごくごくあたり前の出来事をただの一過性の出来事とはせずに、自分ごととして深く人生の命題として受け止めていくというのがお取次の主願でもあります。

それはいったい何のためにやるのかといったら、自分のため。
それ以上でもそれ以下でもありません。

もっと言えば、生きるとは、親子関係をどう見ていくかしかないかと。
それぐらいまで言い切れると私は思って生きています。

どういうことか。

親?僕とは関係ないですよ。
この世にはもういませんし。

そんな人にこそ、今日の文章は読んでいただきたいと思います。

くわしく説明します。

自分の出どころです。
根っことも言える。
それがどうなのか。

そして愛情の授け元。
根っこがあやふやなら成長も思わしくないでしょう。

愛情の授け元がポンコツなら、同じく、受け手もポンコツになり、愛情が授けられないと、つまりはそういうことです。

「私は違う!」
「私はあんな親とは違うんだぁぁぁ!」

と、どれだけ息巻いたとて、根っこは変わりません。
根っこですから。自分とつながっているのです。

または、目には見えないところを張っている。地上ではなく地中をね。
見えないからこそ、そう簡単には変わらないもの。

人目は立派に見えていても、いつしかメッキが剥がれるなんてことも。
それはとりも直さず無理をしているから。
自覚はなくても、生きづらいなら、無理をしているのです。

無理とは理が無いと書き、理とは「ことわり」のこと。
道理とか真理とか、その理です。

なので、ちょっとやそっとじゃ変わらないものであり、いや絶対に変わってはならないものと思っていて差し支えないかと。

この理をインプットするのが信心の趣旨です。

そう、信心はその「理」を求めていくものではあるのですが、そこに「親子」の関係が切っても切れないと私は思っています。
そう思うようになりました。教えてもらってのことです。理をね。

早速ですが、答え(天地の道理)から伝えます。

親は子どもに対して無条件の愛で接していく

これが天地の道理です。

なのに……。
現実世界はどうでしょうか。
ほど遠いですよね。

自分勝手な親。
仕方がないと言い張る親。
「私だって頑張っているんだからね」と自己主張(自己弁護)に必死な親。

その子どもは何を得るのでしょうか。

自分勝手、
仕方がない、
子どもよりもわが主張を大事にする

そんなところでしょう。
そしてそれは連鎖する。

人はしてもらったことしかできない

師の教え

「育て直し」とも、教えてもらっています。

あらためてしてもらえばいいのです。それだけのこと。

これは何歳になってからでも。

40を超えたオッサンでも。
80を超えたおばあちゃんでも。

育て直された暁には「人間らしい」人間になっていることでしょう。

私が日常で行っていること。

この「育て直し」に少しでも関与させてもらうことです。
親代わりとなって。あの私が。(くわしくは3日前の投稿を)

信じられないことですが、今苦しくて仕方がない人は愛情が足りていないのです。

親との縁がハチャメチャなのです。

育て直しが必要なのです。

後述していますが、どんな私でも良いんだと思えるには育て直しが必要だと。

人生を諦めずに、育て直してもらったら良いんです。

取次者を通して神様に。

死んだと思って、すべて預けてみてください。
とここで、私が出てきます。

預け元がこの私。
実に心許ない……。

でも、やるしかありません。
それこそ、できないながらにできることを一生懸命に。
これは私の立場での想い。

親子、、、っていきなり言われてもどうしようもない。
今日からこの人が私の親?

当然、子ども側にも、それ相応の覚悟が必要でしょう。

親と思えば子と思う

二代金光様(金光教教祖様の子)のお言葉

互いにカタギではあれ、それこそ契を交わして、そしてその結果何を得るか。何が得られるか。

それが、
無条件の愛です。

私は何をせずとも愛されている。
大切にされる存在なんだ。

どんな私でも受け止めてくれる、受け入れてくれる。
そんな親に死ぬ前に会うことができた。

あぁ良かった。
ここに居て良いんだ。
どこへも行かなくて良いんだ。

私でいいんだ。

そんな想いが心から身体いっぱいに充満してきます。
無条件の愛。
それこそがおかげです。

どうですか?
味わってみませんか。

私ですか?
精一杯がんばります。

追伸:とにかくもう心許ない私ではありますが、無条件の愛は受けてきました。その原体験はしっかりとありますので、この文章もスラスラと書いています。

私が経験してきたこと、そのときの気持ち、嘘偽りない話です。むずかしい話なんてしません。できません。

金光教の教えがわからないといけないなんてこともない。いや、そんなものはむしろ関係ありません。私だってよくわかってない。

私があなたを受け止めます。それだけ。

私は私で教祖様の教えを拠り所にしてあなたへと立ち向かいますが、子であるあなたは何も知らなくて良い。

本気でそう思っています。信心しておかげを受けていくっていうのはそうなのですが、親と一緒になって信心すれば良いだけの話ですので、その辺は大いに安心してもらって結構です。

いかがでしょうか。

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