No.58|百日行願58日目(2024年9月29日)
こんにちは。
百日行願、五十八日目。
今日も命を頂いております。
ありがたいですね。
師匠を頂く上で『弟子の構え』というものが自然に身についたような気がします。
出逢った当初に「須賀院くんはこれまで叱られたことがないんだね」と言われ、それから言葉遣いを徹底的に学びました。
「了解です」が目上の方への敬語だと本気で思っていたぐらいですから、とにかく学ばないといけない人間だったことは包み隠さずここにお伝えします。
私が有り難いなぁと思っているのは次のこと。
この叱る叱られるということや、言葉遣いを、尊敬する師の元で体得できたことが何よりも有り難いことだったのだと強く思うのです。
マナーとして、知識として教えてもらったんじゃない。
ときに親子関係も相まりながら(金光教の取次は親子関係も内包する=親になるぐらいの覚悟がないと人助けなどやっていられないから)、
ぶつかりあいながら、叱られ、言葉遣いを見守り続けて頂きました。
有難うございます。
いつしかそのような言葉が自然に私の口から出るようになりました。
繰り返しますが、マナーではありません。
使いたい、使うべき、言葉を尽くして私のあなた(師)に対する気持ちを伝えたいと思える存在が私の目の前に現れたということが、何よりものおかげだと思います。
この状態こそ私は『弟子の構え』だと理解しています。
マナーだったら、この場ではこの言葉を使っていれば良いんでしょ、そのぐらいのものと、使う言葉を軽く考えてしまっていたと思うのです。
そうじゃない。
教えて頂きたい。
まずは「助けてください」だったかもしれません。
でも、おかげをいただき変わってきた。
「教えて頂きたい」に。
そうしたら、自然に教えてくれる人を敬うでしょ。
言葉遣いも自然に変わりますよ。あたり前です。
なんでも話し合い教えてもらえるものだと思っていた私は、教えを引き出すことは出来ませんでした。というより、教えてもらっていることにも気付かなかった、という表現の方が正しいかもしれません。
ぜひとも教えて頂きたい。
心身ともにこの姿勢になったとき、
「いいか、よく聞きなさい……」
というものが降りてくるような、そんな世界だと思っています。
そのような関係性にならないと人は助からない
ということも肌感覚として知りました。
いうことを聞かぬ子は親も仕方がありません。
ですから、私が目指すべきところは、
「教えて頂きたい」
と願い出ようとそこまで思える氏子にお育ていただく関係性を築くこと。
氏子が教えて頂きたいと願い出るような私で在ること。
と言ってもまあ、そこまで心配していません。なぜなら、氏子はおかげを頂いたら聞きたくなってくる(教えて頂きたいと思う)ものだとも、そこまで実体験からも教えていただいておりますので。
そこまで心配はしておりませんが、私の一挙手一投足で氏子の信心に対する熱は冷めるというのも、こちらも肌感覚で感じておりますゆえ、私としてはこの点こそ、十分に注意していかなければならないと思っている次第です。
具体的な実践は、想いを言葉に乗せること。
祈り、氏子にかける言葉を紡ぐこと。
日本には言霊という言葉(考え方)がありますね。その考え方には私も共感しています。確実にあると思っています。言葉にも魂が。
ですので、氏子からのLINEやFacebookメッセージでのお届けの返信の際、私が打ち込むテキストも祈りながら、そして送信ボタンを押すときは必ずご祈念しながら押すようになりました。
意味があるのかはわかりません。
ですが、意味があると信じています。
祈らせてもらいたい、そうせざるを得ない、伝わってくれよ、助かってくれよ、その気持ちが私の行動になっているのだと思います。こんな私でも、誰かのお役に立ちたいと思えているこの現実こそ、喜ばしいおかげだとも思うのです。
昨日も触れましたが、人と真剣に向き合うことに繋がります。人と真剣に向き合う中で「やり方」は向き合う個人の器というか、徳というか、裁量が色濃く出るものかと思います。
もちろん、真剣で向き合うということは言うまでもないことですが、どこまでもその「やり方」はその都度都度で求めていきたいと思っています。
我々人間の親である神様は、子である人間を助けたくて仕方のない御存在なので、求めながら、伺いながら、至らぬ私ではありますが、そのような気持ちで真剣に事進めてまいりたいと思っております。
今日は以上です。