No.76|百日行願76日目(2024年10月17日)
こんにちは。
百日行願、七十六日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
ドキッとする言葉が目に飛び込んできた。
私が教祖様を死神にしてる???
毎日、真剣に言葉と向き合って、
ときには柔軟に、
ときには自身の恥部も披瀝して、
なるべく読み手にわかりやすいよう言葉を並べている自負はあったものの、どこにどのような失礼があるやらわからず……
そんな気持ちでこれまでを思い返していたら
心当たりもいくつかありそうな気がして、
とにかくドキッとしました。
けれど、読み進めていったらそれは
期待の現れだったことを知ってホッとしたのですが……。
今日は「教祖様を死神にしないでください」という私の頭の中にはない言葉を見させて頂いたので、そのことについて思うことを書いていきたいと思います。
教祖様が死神って?
まず初めに浮かんだのが、
というなんともミスマッチな言葉遣い。
私の辞書にはありませんし、発想すらしない。
今後も浮かばないと言い切れるこの言葉遣いについて。
そもそもで、金光教の教祖様とは言うまでもなくこのお道を開かれた人です。
もちろん生きているうちにたくさんの人を信心の道へと誘い、つまりは人を助け、助けられた人からは「生神様ぁ~」と乞い称えられ、神様からも『生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)』との御名を頂き、まさに自他ともに生神様として君臨していた御方ではあるのですが……
私の中では1人の人間として、受け止めさせて頂いております。
その理由を書いていきます。
あらためて、教祖様のことは、もちろんとてつもなく人を助けられてきたご存在として心から尊敬もしておりますし、慕っておりますし、有り難い存在として頂いておりますが、
ですが、私の教祖様の好きなところは
「どこまでも人間臭いところ」なのです。
あるときは「だから言ったでしょう」と家族に詰め寄り(これは神様からお告げを頂いた教祖様は結果を信じていたけれど周囲の者はまさかと信じていなかったケース)、
あるときは「これで済んだと思いません」と自らを戒められたり。
とにかく、生涯「私は悟った」「悟りきった」とご自身を捉えられていなかった、そのように私は教祖様のことを認識しております。
そして、教祖様ご自身もおそらく、周囲から何度も何度も「教祖様ぁ~」「生神様ぁ~」と言われようが、どこまでも「私はただの百姓です」と言い続けたのは、これは謙遜でもなんでもなく、本気でそう思っていたからだと、理解しているのです。
だから、私は教祖様が好きなのです。
そんな教祖様が死神って?
生神ともご自身で思われていなかった教祖様が死神ってどういうこと?
周りの者が「生神様ぁ~」と称えることはあっても、教祖様を「死神ぃ~」とは言わないだろう……
そんな感じで、マジでピンと来ませんでした。
教祖様が望まれていたことはただ1つ、
氏子(人間)の助かりです。
だから信心が大事なわけで。
でもそこに私(教祖様)が居ようが居まいが関係ない
そのようにも思われていたんじゃないかとか。
ただ流れ流れて、人が道を開く役割と感じてからは、取次(とりつぎ:神と人とを取り次ぐ)のお役に当たられたのですが……でもこれ(取次)じゃないと助からない……とは生涯思われていなかったのではないかとか。
その証拠に、教祖様はこの道を後世に残そうとも思われていなかった。はじめはね。
ご自身のみに関わりある人を助けれられたらそれで良い、それで十分だと、本気で思われていたんじゃないかと。
じゃあ、なぜ160年以上経った今もなおこのお道(金光教)が伝わっているのかと言えば、教祖様の周りの人(直信・じきしん:教祖様に直に触れた信者)が「このままでは流行り神で終わってしまうから何か残してほしい」と願われ、教祖様へと懇願し、教祖様も「それならば」と受けたまで。
そういう意味では、残すべき営みは本当に大事だとは思います。
ただ、その残し方は必死になって考えていきたいと思っています。
私が好きなエピソードに「ビンタでもしてみれば……」というものがあります。もちろん例えですが、言っても聞かない人でも、ビンタされたら目が覚めるかもしれないとか、そんな意味合いかと。
このエピソードを好きだと言う理由は、それぐらい伝え方(ケースバイケース、オーダーメード)はわからないということです。人それぞれ。千差万別。私も日々、模索しています。
人が助かりさえすればそれでいい。
人の助かりなんてこの言葉以上でも以下でもないし、
私もこの一点で日々を生きていると言えます。
金光教の教師の私が言うのもなんですが、人が助かるのなら金光教じゃなくても良いだろう……と思っています。ただ、私は金光教で助けられたし、金光教しか知らないし、発する言葉の根底には「天地金乃神様(金光教の主神)」「生神金光大神(教祖様のこと)」が必ず存在しています。でも、ただ、それだけでもあります。
その教祖様が死神になるっていうのは、ここまで書いてもやっぱり浮かばない。ようもようも信心してくださって、天地金乃神様をこの世に打ち出してくださって、有り難いなぁ……これしかない、教祖様のイメージはこのほかに出てこないのです。
一休さんではないですが、
あわてない、あわてない、
ひとやすみ、ひとやすみ
そんな気持ちも大事なのでしょうね。
これで済んだと思いません
はどこまでも自分に対して使う言葉
難儀な氏子を前にしたら憂う心はあっても焦ってはいけないのかと。
以上が
教祖様を死神に……
という言葉から私が感じたことです。
ありがとうございました~。
追伸:今日もまた私の投稿にコメントを頂いた言葉を軸に、思うところを綴ってみました(本当にコメントをありがとうございます。反応があるだけで無性に文章を書きたくなる自分がいます。そんなわけで今後ともよろしくお願いします)。
おそらくこの言葉を使われた(選ばれた)方も、それはもう必死な気持ちで、信心を、このお道を必要としている氏子へと想いが届くようにと、私の投稿(ほぼほぼ駄文)に想いを託してくださってのことなのでしょう。
それでも私には終始ピンとこなかった言葉なのですが、これも、違った角度から教祖様しかり金光教を見つめられる結果になりましたので、それはそれは、有り難かったというのが正直な気持ちです。否定しておりません。悪しからず。ありがとうございました~。
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