No.97|百日行願96日目(2024年11月7日)
こんにちは。
百日行願、九十七日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
私は教会の二男として生まれました。
3歳から6歳まで5回も交通事故に遭っています。
命を繋いでいただき大学を卒業後、不動産会社に入社。
入社前に「ゆくゆくは教会の二代目を」と、両親兄妹と話し合いました。(兄が「僕には出来ない」と言ったから。私は「お父さんお母さんが喜ぶなら」そんな気持ち、深く考えていなかった用に思います……)
30歳までは社会人をと両親と話し合いましたが、28歳で社内恋愛の末、妻と結婚。29歳で退社、金光教学院へ行くことになりました。
学院では後の師匠となる先生と出逢い、取次を知ります。取次を頂く中で、学生時代・社会人時代どうにも生きづらかった原因が自分にあることを知りました。その頃より、自分を見つめる求道生活がスタートします。
あらためて、取次は学院では習いません。というか習えません。実践なので。金光教の肝である取次は、自分が難儀にならない限り本気で求めようとは思えない代物だと思っています。学ぶものでもありません。でも、取次者になるならば学んでおかなければいけないものなのです。
話を戻して、私はその後、ここ金光教武蔵小杉教会の在籍教師になり、副教会長を経て、10年前の開教40年祭に代を替わり金光教武蔵小杉教会の二代目教会長になりました。
あらためて、私がなぜこの場所にいるのか……
1つ目の理由は、父の跡を継いだこと。
順当に行けば今年80歳になる父が先に逝きますので、父の跡を息子であり当時三十代であり在籍教師でもある私が継いだ、と。ただ、これは今や理由にはなっていません。なぜなら八十代だろうが四十代だろうが、命を頂いているお互いだと強く思っているからです。どちらが先に逝くのかなんてわかりませんから。これは関係教会の先生の四十代でのお国替え(死)により強く教えられたことです。
なので、2つ目の理由がこの場所にいる理由になります。
それが、使命。そう強く思っています。
私は取次頂き助けてもらいました。
取次により自分の底を見ることができました。見させてもらえました。
どうしようもない自分なのだと心から分からせてもらえました。
それは『真』の取次体験を頂いたからだと思うのです。
あえて『真』をつけましたが、真の取次とは『どこまでも自分を見つめていくこと』をわからせてもらう、と言い切れます。
自分を見つめるのが信心であり、真の取次を頂かない限り、自分を見つめ続けるなんて不可能です。そう思っています。
そして、どこまでも、神様と取次者の先生と一緒に見つめていくものだと。(ときにドロッドロとした自分にであう。私の場合、それはもう発狂モノでした。自分一人では太刀打ちできなかった。それが私の取次の実感……)
神様と先生と一緒に。
これは私と先生(師匠)の間に、よほどの信頼関係が無ければそもそもの信心が続かないものだと理解しています。その意味で真の取次体験と言いました。
奇しくも私は、この真の取次を体験させて頂けたのです。自分の人生を練習帳にしてね。
それを、今、教会長の御役を頂いているここ金光教武蔵小杉教会で、私がしてもらってきた真の取次を現すことが私の使命だと思っています。これこそが、私がここにいる最大の理由です。
そんなことを思いながら、紆余曲折ありながらもこの10年間、命のおかげを頂き続けて教会の代表を続けさせて頂くことができました。
最後に、私の思い描くビジョンを伝えて今日のお話を終えさせて頂きます。
数年前から、
これが私の思い描くビジョンになりました。
私の思い描く金光教武蔵小杉教会のこれからです。
追伸:3日後には開教五十年記念大祭を仕えさせて頂きたく願っております。それまで一日一日の命のおかげを頂かないことには何も始まらないのですが。おかげいただいていきたく、お願いしていきたいと思います。
まあ、まずは今日の御礼ですがね。
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