No.38|百日行願38日目(2024年9月9日)
こんにちは。
百日行願、三十八日目。
今日も命を頂いております。
ありがたいことです。
昨日、月例祭を仕えさせて頂きました。その後、あるご家庭の霊祭(みたままつり:仏教でいうところの法事)をさせて頂きました。
このFacebookの投稿では早々にカミングアウトしていることなのですが、わたしが両親との確執を経て、都度都度お取次を頂いて、そうして今、命を頂きありがたいなぁと思えている、そんなおかげ話を、教会では角が立つと思い、固有名詞は伏せながら教会でも折々に話していたんですね。(固有名詞とは、私が人間関係で苦しんだ張本人が父母であること……と私は伏せてると思いつつも、教会に長くいればみなうすうす感じていることとは思いつつ……)
それでも、あらためて昨日はある氏子に「実は……」とカミングアウトさせてもらった。まあ、少数ではありますが……。
理由は、シンプルにそういう気持ち(聴いてもらいたい気持ち)になったから。この夫婦には言っておかないと、そう思うようになりまして。実際に、「あのお話の相手……実は両親なんです」と伝えました。
私の両親と言いつつも、ご夫婦にとっては私の親ってだけではなくて、お二人からしたら初代教会長夫婦なわけです。それはつまり、大切な存在ってわけなのです。
で、私が二代目になった。つまり、二人にとってはもちろんのこと、今でもこの教会にお参りされているほとんどの人が、父と母と、それからもちろん神様と歩んできたウン十年があっての今ということ。
そして、初代がしてきたことを受けたいとは思いつつも、上手に受け入れられなかった二代目(私)という構図です。
初代夫婦と二代教会長との確執。よくある代替わりにまつわる親子の確執でもありますが、ここ金光教武蔵小杉教会でもそれはあったのでした。
もちろん、それはただ単に「親父が嫌だ、母親が嫌だ、今の教会が嫌だ」という感情論だけではないことはあったのですが、私も人間ですからね(そしてポンコツ・オブ・ザ・ポンコツ)、最初は理由がちゃんとしていた対立も、ガミガミと言い合っているうちに、その人個人(つまり両親)が嫌になっちゃったと。いつしか人格攻撃に。はぁ~。
ガミガミの言い合いを数年した頃には、両親の顔を見るのも嫌になっていました。初代教会長夫妻?、だから何だ、それがどうしたと。そんな感じ。(残念)
その渦中の話を、固有名詞を出した上であらためて聞いてもらいました。
なぜ聞いてもらいたくなったかといえば、その渦中のときも、そのご夫婦は(そのご夫婦だけはと言っても過言ではなく)、ウン十年と父母が努めてきた教会の歴史を共にしたのにも関わらず、私(須賀院崇徳)が決めたことについていこう、「新しい教会長が決めたことを皆さんで応援していこうじゃありませんかー」と、率先して声を上げ続けてくれたのです。
その恩は一生忘れないと、あらためてお二人に昨日申し上げました。もう、涙、涙の中。涙なくしては語れませんでした。法事のあとの話が、涙涙で、もうグダグダの結末に。
今年は特別な年。金光教武蔵小杉教会が開教してから(父が宗教法人金光教武蔵小杉教会として教会を立ち上げてから:母は開教後に父と結婚)50年という節年です。
私は開教40年を機に二代目になったので、それから10年が経ったということ。怒涛の10年でした。私にとっても、父母にとっても、この教会にお参りされている(お参りされていた=離れてしまった)氏子たちにとっても、怒涛の10年だっただろうと思います。
そんな節年ということも相まって、そのご夫婦に伝えたかったことは「ここまでありがとう」という感謝の念と、「こんなポンコツ教会長ですがこれからもどうか共に信心させていただきましょう」というお願いというか、私の本心を赤裸々に伝えた次第です。
以上、昨日ふと思い立って実践したカミングアウトの話をツラツラと書いてみました。お読み頂き、ありがとうございますー。
追伸:吐き出すと楽になりますね。私は、私の身を持って知りました。
10年前の代替わりのときは、吐き出せなかった。吐き出せず(弱音など吐けず→全部取次の場で吐いていた、吐きまくっていた、師匠に聴いてもらってきました)、そして殺気立っていた。自分でも自分が怖かったほどに。
私に異を唱える者は誰彼構わず睨みつけていました。「嫌なら来るな(参るな)」と、そう言ってもいました。
それだけのプレッシャーでした。それだけプレッシャーがひどかった。どこまでも言い訳ですが。
ただ、40年間の重み。50年に向けての期待。そんな目に見えない巨大な渦のようなウネリに、よくわからない私が巻き込まれてしまった感じ。ただでは抜け出せない。それでも「私が選び、足を踏み入れた場所だ」そう思いつつも、ただ、渦中では「変わるのが早かったかも」「こんなことなら変わらなければ良かったかも」と、父母からも、周りからも言われ思われ続けた10年間。それは被害妄想でも幻聴でもなく、確実にあったと思います。
そんな代替わりです。それでも10年。一日一日を積み重ねての10年です。ありがたくも、今日も私は神様から尊い命を頂き、ここに座っております。
「教会長の胸の内が聞けてよかった」
御夫婦にそう言ってもらえて……とりあえず話をして良かったなとは思いました。
ここからも、お育ていただきたい。。。
それこそが(私がお育て頂くことこそが)、つまり私の難儀を消してもらうことこそが、ここに集う氏子の『助かり』に繋がると確信しているから。