No.96|百日行願96日目(2024年11月6日)

おはようございます。

百日行願、九十六日目。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

昨日の投稿の続き。

お参りされた氏子(亡くなられた人の妹)に話をしながら強く思ったこと。それは、

【 吐き出す場所こそお広前 】

ということ。

実の兄の失態をはじめて聞いて、予想はできていたものの面食らった様子で「あらためて、その節は失礼しました」と妹さんからお詫びされました。これで、話すタイミングができました。そうじゃないよと……。

どういうことか。

吐き出す場所こそお広前(私が座っている場所)なのだ、と。
もちろん、おかげを頂いて心が落ち着いたら
襟を正してお礼したらいい。でも……

しんどくてしんどくて辛いのに、無理に御礼を言う必要はないし、
ココはそんな場所じゃないんだ、ということ。

そして、氏子も人間だから追い詰められたらどのような行動を取るかわからない。目の前で命を受けとめる私は警察への連絡も視野に入れて身の危険も案じながら吐き出す氏子に対峙したい、対峙する存在が私であり神様なのだとあらためて思えたこと。

百日行願を通して、また新たなことを教えて頂きました。

教祖様や師匠からしたら、
「ようやく気づいたか」ってことなのでしょうが、
私の中でまた1つ覚悟が決まりました。

有り難いことです。
今日もおかげ頂きます。

追伸:「どうぞこちらで喚き散らしてくださいね」そんな場所、この日本でありますか?自宅以外、おそらく無いでしょう。

でも、喚き散らせる唯一の場所である自宅も、親になりきれない親のせいでキレイに整頓されてしまっている。それが現状。

しんどいなら叫べ、辛いなら喚き散らせ、害を加えられない限り受けとめるのが親だろう。ときに刺し違えるかもしれない、それぐらいの覚悟を持つ者が親だろう。

そんな親が一人でも増えれば……。
どんな子どもでも一人前に立ちゆくはずだ。そしてその子どもでは終わらない、また子どもへと受け継がれていく大事な覚悟なのでしょう。

またまた偉そうに、すみません^^;

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