No.11|百日行願11日目(2024年8月13日)
百日信行、十一日目。
今日も命を頂きました。
ありがとうございます。
突然ですが、あなたの思う『信心』とはどのようなものでしょうか?
今日は『信心すると何が良いのか、何が良くなるのか』について書いてみようと思います。
さっそく結論から書きますが、
それはズバリ【改まれること】だと思っています。
「改まる」を調べると次のような意味が。
どちらも似通った感じですが、変わったり、入れ替わったり、そのような意味ですね。
しかも、ご信心いただけばどんなときも「改まる」ことができます。
できるようになります。
良いときも悪いときも、嬉しいときもどん底に落ち込んでいるときも。
良いときに改まるって何かといえば、それは油断しないことでしょう。調子に乗ってズッコケないように、いつも以上に注意して生きるだったり……。
そして、悪いとき・どん底がいつだって問題です。
悪いときに改まれないからズルズルと状況も悪化していくというもの。また、状況が悪いときほど、改まるのが難しいのが人間というものですから。
落ち込んでいるのですから仕方ありません。
誰かのせいにしたい、
いつも以上に慰めてほしい、
一緒になって自分以外の原因を探してほしい……。
どん底ですからね、このような気持ちになるのではないでしょうか。
でも、自分が改まる。
自分が変わる、自分が入れ替わる。
すると、おかげになります。
ご信心が進めば、この反応速度が格段に上がる気がします。
数年前なら、改まるのに数ヶ月、もっと言えば何年もかかっていたものが、パッと「自分がいけない」「自分の油断がまねいた結果だ」と改まりの心になれるのです。
すると、どうなるか。
油断を気付かせてもらえた御礼心がふと湧いて出てきたり、
気付かせてもらえるのも命を頂けばこそだよなぁという御礼に貴重な時間(命)を費やせたりします。
これが、原因追及や、「あの人がいけない」「この人のせい」とかなんとかかんとか……。
つまり自分は間違っていない、やるべきことはやった、悪いのはアイツなんだという自分を守る言い訳(言い分)をあれやこれやとこねくり回すのに貴重な時間(命)を費やしていたら、それこそそれだけで一日が終わってしまいます。
まさに5年前の私がそうでした。
自分を守る言い分だけをこねくり回し、そうして出てきた考えが唯一の真実であると思いこんでいました。
だからこそ改まれなかった。
自分が改まるなんて考えられもしなかった。
いや改まるのはむしろ相手の方だろう、本気でそう思っていましたから。
ここで、相手を変えるのは無理です、ということは元気なうちにインプットしておくことをオススメします。
たとえ論破して相手が変わったように見えたとて、また目の前に別のターゲットが現れるのがオチ。そうして堂々巡りしている人も少なくありません。
どうやったって、自分が変わる方が確実だし、早いのです。
ご信心とは【わが心が神様に向かうこと】なので、自分の心をよくよく見つめる作業をずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっとしているわけですね。
そしてそれは1人じゃありません。
親身になって聴いてくれる取次者の先生と一緒に。
そうすると、ふと、
「改まろう」
「改まりたい」
と、そのように思える瞬間が訪れます。
そこからは、確実におかげになります。早いです。体感速度は一瞬です。
そうして誰しもがおかげの道を歩み始めます。
つまり、生きやすくなっていく。
そして、生きやすくなると出てくるのが冒頭にも話した「油断」ですね。
生きやすくなるとどうしたって気が緩みますから。
油断しないことも、日々の改まりが肝心要と思います。数日前、油断から大失態を犯した私が言うのですから間違いありません。(くわしくはこちらの記事を)
信心は、ただの自己啓発ではなく、テクニックでもない。
信心は、人間らしく生きる『生き方』です。
信心は、人間であるならば万人が自分ごととして考え取り組まなければならないものだと強く思っています。
これが私の思う信心。
そして、信心させて頂くと何が良いのか、何が良くなるのかの解答です。
いかがでしょうか。あなたの思う『信心』とは?その効能とは?
感想をお待ちしております。
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