No.50|百日行願50日目(2024年9月21日)

おはようございます。

百日行願、五十日目。
百日の折り返し日。

今日も命を頂きました。
ありがとうございます。

ナニハトモアレ今日を迎えられた。
この視点で「自分の今日」を感じ取れる人は、ほうっておいてもおかげを受けます。

逆に、この視点になれない人。その人たちがおかげをいただくのは難しい。

理由は、いたってシンプル。

今日があってこそのすべて、だから。以上です。ありがとうございました~……、で終わらせずにもう少し細かく触れてみます。

今日があってこそのすべて

この視点を「はいはい、わかりました」ではなく、自分自身へと刻んでいく。

今日は喜べているか?
今日の命を有り難いと感じられているか?
今日はズレてはいないか?

これこそが信心ではないのかなぁと最近強く思います。

祈り?

もちろん大事です。

「どうか〇〇できますように」

でもね、
それ以上に、今日の命を喜べている自分なのかが比べ物にならないほど大事だと私は思うのですがいかがでしょうか?

今日の命を喜べない者が、分かってはいるけど心の奥底から喜べない者が、命の授け元である神様にいくら祈ったとて、

「おいおい、今日与えた命の御礼はどうなっているんだよぉ~」

と神様から突き返されるのがオチではないかと。(親である神様はこんな言い方絶対にされないとは思いますけどね^^;)

順序。物事には順序が大切。
ズボンを履いてからパンツを履く人はいない(ごめんなさい、もしかしたらいるかも^^;)

冗談はさておき、そうした物事の順序はある。
それは信心にもある。

①命を喜び御礼を申す
②不安な事を祈念する

でもね、信心を長くしているとわかるとは思いますが、命の御礼で一日が終わるようになる。いや、むしろそうあらねばならない。

だって、こうしてカチャカチャキーボードを叩いている今でさえ(この1分1秒でさえ)命を頂いているのですから。

その御礼は?
本当に分かっていますか?
どうなんですか?俺?

追伸:御礼できなかったらできなかったでそれは身の丈として受け入れましょう。

命の御礼ができないからダメ~、なんていう神様(天地の親神様=私たち人間の親)ではありませんから!

追追伸:明日、秋の『みたま祭り』をここ金光教武蔵小杉教会にて午前11時より仕えさせて頂きます。と言っても、明日も命を頂かなくてはなのですが。どなたさまでもお参り可能です。予約も必要ございません。祭典後は、常々こちらの投稿に書いてあるような『命のお話』を私がさせて頂きます。生で聴きたいという奇特な方はぜひ一度お教会へ。神様と共にあなたのことをお待ちいたしております。

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