松岡映丘「富嶽茶園図」献上顛末
戦前静岡茶広報史の一場面(8)
瀧恭三についてはまだまだ語るべき事があるのだけれど、情報が多すぎて整理がつかないので、彼を調べている間に出てきた「広報史」(?)の一幕を挟むことにしよう。勿論、瀧自身も関わる話である。
現在宮内庁三の丸尚蔵館所蔵の、松岡映丘「富嶽茶園図」は、「昭和の大礼に際して静岡県茶業組合連合会議所より献上」されたものである。昭和日本画を代表する文字通りの大作であり、背景の研究もあると思われるが、さしあたり、ざっとweb検索しただけではあまり見当たらなかった。ここでは、当時瀧恭三が主筆を務めていた『茶業界』、つまり「献上」した静岡県茶業組合連合会議所側の本作品に関する記述を紹介する。
現在、三の丸尚蔵館のwebサイトで「昭和 大礼」でヒットするのは僅かに22点ほどであるが、実際には相当な数の献上品があったようで、選定や実際の献上に至る過程の研究も個別にあると想像できるので、珍しいことではないかも知れないが、一例として。なお、会議所の内部資料のほか、宮内庁側の資料や、画家本人の記録などを突き合わせることが出来れば更に面白いけれど、それは別の人がやってくれれば有難い。
なお、例によって、主にNDLデジタルコレクションを使用するが、公開資料か送信資料かの別は明記しない。
基礎知識
先ず、ごく簡単にこの絵についてさらっておこう。松岡映丘の基本情報については、さしあたり東京文化財研究所の記事をリンクしておく。作品は三の丸尚蔵館にあり、公式サイトで簡単な解説とやや大きめな画像を見ることが出来る。
また、この絵が展示された2019年「大礼―慶祝のかたち」展、2017年「名所絵から風景画へ」展の、2008年「富士―山を写し,山に想う―」展の記事から、それぞれ図録がダウンロードでき、こちらにも解説と画像がある。
*なお、「富士―山を写し,山に想う―」展図録に、「映丘はこの図の制作にあたり、駿河湾付近を歩き、写生を繰り返したという(『松岡映丘画集』国画院、一九四一年)」とあるが、NDLデジタルの当該書籍と思われる資料にはそのような記述はない。
ついでなので、参考のため、この展示や大礼について紹介しているweb記事も挙げておこう。
即位礼に合わせて見たい祝福の品々 三の丸尚蔵館「大礼―慶祝のかたち」(日本美を守り伝える「紡ぐプロジェクト」公式サイト:文化庁・宮内庁・読売新聞)
世界に比類なき大礼 万歳の絶叫が大地を揺るがした(昭和天皇の87年:産経新聞)
画稿・下図は、故郷の福崎町立柳田國男・松岡家記念館に所蔵されているらしい。さらに、記念館に収蔵されなかった別の小下図もあるらしく、「松岡映丘の画稿紹介」(平瀬礼太 姫路市立博物館『研究紀要』12号 2011)に写真も掲載されている。
評価少々
検索したところ、この絵に対して最近の鑑賞文があったので紹介しておく。
「巻頭言 地理好きな私と海洋観測研究」(加藤義久 海洋化学研究所『海洋化学研究』34 2021)
曰く、「実際の地形とほぼ合致していて,実に写実的である」ということで、描かれた土地を読み解いている。それはその通りであるが、初三郎の鳥瞰図同様実際に牧之原からのこのように見えるわけではない事は、野暮なようだが確認しておく必要があるだろう。
とはいえ、例えば北斎の冨嶽三十六景「駿州片倉茶園ノ不二」等と比べれば、確かにどこがどこなのかはっきり判る図になっているのは確かである。なお、「片倉」がどこなのかははっきりないらしい。
同時代的には、遺作展を鑑賞した記事が2件。
「松岡映丘遺作展を觀て」(天地人 『詩と美術』2(7),詩と美術社,1940-08)
「松岡映丘遺作展を觀て」(川路柳虹 『美術と趣味』5(8),美術と趣味社,1940-08)
更に、村松梢風『本朝画人伝』巻5(中央公論社 1943-03)でも、本作について触れている。
それぞれ、新し日本画の風景画としての特徴を評価しているように読める。
『茶業界』に於ける関連記事
静岡県茶業組合聯合会議所は、昭和の大典にむけて、静岡駅前に広告塔を設置するなど、広告戦略も行っている一方、県を通じて各市町村に「茶園基本調査」を行っている。それらの事業の全体像は、『静岡県茶業史』続篇に記事がある。当該記事は長いので、今概要部分を引いておく。
ここに記されている画幅献上・功労者表彰・茶園基本調査・大量製茶品評会を四大事業と位置づけ、三万円以上の予算を計上した。記事冒頭、画幅関連の部分だけ引用しよう。
この記述だけで十分にも思われるが、以下、『茶業界』収録記事を、順を追って紹介する。
見落としがあるかも知れないが、一応『茶業界』の引用は以上。珍しいことは大して無いかも知れないが、御沙汰書や縮図が残っていたら静岡県の茶業界にとっては貴重な資料だろう。
表装が中村鶴心堂による物だという情報も、その筋の人にとっては大事なことかも知れない(参考:鶴心堂表具ばなし)。或いは赤坂離宮内の「展示」の様子とか。
なお、下世話な話になるが、このときの調整費用は如何程だったのだろうか。この件については『茶業界』に記述はないが前出『静岡県茶業史』続篇、献上茶の項目に、関連費用の記事があるので引いておこう。
このうち、映丘に支払われた「代金」がどれくらいかはまた不明としか言いようがないけれど、昭和三年の3686円は、どう換算すれば良いのだろうか。
さて、私含め、静岡の近代史に少し興味がある人にとって、とても面白い偶然は、このとき宮内庁側で対応して名前が登場する二人、即ち宮内大臣一木喜徳郎と皇后宮大夫河合弥八が、ともに現在の掛川出身で大日本報徳社の四代、五代の社長を務めた人物だったと言うことだろう。
とはいえ、この時期、一木の父、岡田良一郎が開いた私塾、冀北学舎は地方の小規模な私塾ながら全国から英才を集め、ここを出た人々は、中央で活躍するエリートになっていたので、必ずしも偶然、とは言い切れない。
私が長いこと興味を持って調べている後藤粛堂も、冀北学舎の出身である。
冀北学舎についても話題が尽きないので、舎人親王と後藤粛堂を扱うときにでも触れることにしたい。
なお、「ローカルの視点」(moderntimes)参照。
参考:
一木喜徳郎 著『一木先生回顧録』(一木先生追悼会代表者 河井弥八 発行 195412)
河合弥八(掛川市 郷土の偉人)
『報徳』59(9/10) (河合弥八先生追悼誌)大日本報徳社 196009
*報徳社・冀北学舎訪問時の写真(201806ツイッター)
中村圓一郎も瀧恭三も、特に報徳社との繋がりがあるわけではなさそうだが、当然一木や河合とは旧知の仲だったはずだし、丸尾文六を含め、静岡の茶業(だけでなく、柑橘も、その他の産業も)と報徳社は切り離すことの出来ない関係にあること、言うまでもない。
蛇足になるが、赤坂離宮の茶を製茶していた狭山の繁田武平は、日本弘道会との関わりが大きいようだが報徳社とも関係していたらしい。この人物、あるいは「鳳苑」についても興味深い記事が散見するので、他に触れられていないようなら別に紹介したい。
参考:繁田園
さて、話を戻すと、松岡映丘の富嶽茶園図献上に関しては、常に中村圓一郎会頭が直接関わっているが、基本的に瀧恭三も従って動いていることが分かる。
当時、聯合会議所内の役員は複数おり、様々な役割にそれぞれが対応していたことは『茶業界』誌をみれば分かるので、瀧が特別だったとは言い切れないのだけれど、それにしても、この件に関してかなり重要な位置にいた可能性はもう少し考えて良いように思う。
『茶業界』を読んでいると、戦前の静岡の茶業界が、恐ろしく勤勉で、様々な広告戦略を試みていることが分かる。そして潤沢な予算。既に長谷川伸ら、大衆小説の作家達を招いて訪問記を書かせたこと(これは『茶業界』ではなく、後継『茶』の記事)などは紹介したが、瀧の関わった各種懸賞やラジオ放送、あるいは牧之原でロケを行った映画など、興味深い話題には事欠かないので、追々。
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