地域連携の記憶・記録
古いデータをサルベージしていたら、思いがけなく古いファイルが出て来た。03年12月、私が作って配付した資料。
後に、「アッパレ会」と呼ばれるようになる、地域連携講座の立ち上げを、当時グランシップ館長だった山本肇さんに御願いし、シズオカ文化クラブが主体となって大学に資金を入れる仕組みを議論していただいた、最初の会合。文化クラブメンバーだった満井義政さんが社長だった縁でアルバイトタイムス社の会議室が会場になった。
当時の危機感は、例えば98年、中野三敏先生の『読切講談 大学改革 文系基礎学の運命や如何に』(岩波ブックレット)等に代表されるが、今も改善しているとは言えず、むしろ包囲網は狭まっていると感じられる。
そういう意味で、20年前の内部文書であるけれど、特に個人情報があるわけでも無いので、この際公開してしまおうと思う。
いまは定年を控え、同僚からも学生からも無気力なくせに口うるさい老害教師と見られている私だけれど、20年前はそうでもなかった。
ただ、このとき立ち上げた2つの授業は、特に最初の10年ほどは華々しい成果があったが、学生たちの気質の変化なのか、こちらが年を取ってしまったのか、次第に受講生が減り、地域創造学環の開設もあって、まず「静岡の文化」を閉じ、更に新学部創設に連動するように平野雅彦氏の「情報意匠論」も無くなった。
結局の所、成果物は残った物の、静岡大学としては、この企画が先行して行った市民開放授業以外、何一つ継承しなかったと言って良い。
つまるところ、大学は(そう言って悪ければ、財務省に首を掴まれている執行部は)、文化系基礎学を不要だと、態度で示しているわけだ。
私はもう少しで現場を去るけれど、残る人たちに、一読いただければ幸い。
なお、勿論、書式はnote用にいじっているが、見出しや太字含め文章そのものは改変していない。また、途中、リンクがあるような書きぶりがあるが、既に閉鎖したブログ等なので、敢えて注記しない。
寄付講座の開設に向けて
第1回準備会合
031226 ㈱アルバイトタイムス
静岡大学人文学部言語文化学科
助教授 小二田誠二
はじめに
この件については、現在の所、学内では詳細な議論をしていませんが、人文学部長、学部事務長及び、言語文化学科学科会で、話を進めることについて了解を得ています。この会で皆さんの了承を得られれば、公式に議論していく予定です。
状況認識
国立大学の独立行政法人化移行を間近にひかえ、静岡大学でも、学内の教育・研究・行政の各分野にわたって、様々な改革が進んでおり、人文学部、言語文化学科も大きな波に飲みこまれつつあります。私自身、静岡大学のこれまでの組織運営には反省すべき点も多く、改革の必要性は大いに感じていながら、一方で、現在進行しつつある大きな流れには、危惧せざるを得ません。
心配の大きな要因は、数値目標と職業教育の重視です。言語文化学科は、文科系の基礎学である文学・語学系の学問を扱っています。それは、語学や教員養成など、目に見えて実用的な部分を含みつつ、主体はむしろ精神文化に属する研究・教育にあると考えています。まして、特定の職業に特化した専門職向けの教育機関ではありません。私たちの目標は、どの分野に就職しても(或いは既に就職していても)、そこで、状況に応じて的確に情報を収集・整理・発信すること、また、自ら問題を発見し、周囲の様々な人たちと協力しあいながら解決することの可能な人材を送り出すことにあります。そのために、想像力とコミュニケーション能力を重視しているのです。
このような学問が、効率性・経済性を優先させる現代社会の歪みに対して果たすべき役割は、ますます重要になっていることは誰の目にも明らかでありながら、一方で、その効率性・経済性という評価基準によって軽視されているという現実があります。
現実の問題として、全学の課題として特別な態勢で取り組まれている法科大学院構想の影響で、今後、定年退職者などによる欠員を補充することが困難となり、受講生の少ない分野は存亡の危機にあります。また、全学的な非常勤予算の削減も同様で、受講生の多寡による予算配分が本格化すれば、必要なバリエーションを少人数教育で確保してきた言語文化学科の教育理念は立ちゆかなくなることが明らかです。
予算配分が、教育理念よりも効率性・経済性によって判断されることになりつつある現状を放置すれば、文化的な価値を無視した手軽な実用性のみが幅をきかせるのは明らかです。そのようにして自然環境や伝統文化が、取り返しの付かない打撃を受けてきた多くの実例を考える時、強い危機感を抱かないわけに行きません。このような、「価値の高い不採算部門」こそが、国立大学が担うべき学問分野であるはずです。
私自身は、言語文化学科の学問・教育は、「不採算部門」を宿命づけられているとは考えていません。「採算性」の指標を問い直すこと。「役に立つ学問」「必要な学問」とは何か、と言う問題を改めて考え直すことから始める必要を感じています。この計画は、大学教育をめぐる巨大な潮流に対する問いかけでもあります。実用的なスキルに偏らない人材の育成を、企業を含む地域社会と大学が連携して進める事の意味は計り知れない物があります。
しかし現状では、独立行政法人として、或いは静岡大学という組織として、そうした理念を前面に出すことは、既に相当厳しい状況にあります。そこで、言語文化学科の学問・教育の理念を守るために、外部資金の導入を考えています。それによって、言語文化学科から、こうした学問の重要性を発信し、静岡に、更には全国規模で、文科系の学問を支え、伝統文化を支える機運が具体的に結実することを目指します。
このような説明では、自己防衛的な発想が中心になっているように受け取られてしまいそうですが、実際にここで行おうと考えている講座は、従来の学問の枠組みを超え、基礎と実践を総合した新しい試みでもあります。危機的な状況だからこそ、こちらから新しい提案を積極的に打ち出していくチャンスであると考えています。
言語文化学科の理念
*『学部案内』・『外部評価報告書』参照。
*理念の不明確さなど→明示する必要性
以下小二田ホームページから引用
言語文化学科で学んで何になる?
今年度は、将来構想委員と言うことで、目標やら計画やらを色々作らされることが多い。それが、どのくらい現実のものになるのかよく判らないし、そもそも、実現可能な見通しのある目標設定をしようと言う本末転倒な発想が支配的なのが実状。そんな中で、夏休み前に、「どんな学生を社会に送り出すのか」というお題があって、少し議論をした。私を含む学科の将来構想委員3人と、それから勿論学科会での議論も経て、一応の形になっている。これは、いずれ公式にどこかで議論され、或いは公表されるのかも知れない。以下、そういうわけで、必ずしも私のオリジナルではないが、議論を通して考えたことについて、書いておくことにする。とは言え、勿論、これは組織としての公式見解ではなく、私の私見に過ぎない。同僚の中にも異論はあるはずである。ここから色々議論が生まれてくれれば有り難い。
こういう文書は、あらゆる大学・学部・学科が書いていて、多分名前だけ差し替えても誰も気付かないくらいそこだけに特有の必然性などない。それでも個性が残っているとすれば、それは、その文書に関わった人たちの心意気だと思う。ありきたり・おざなりをよしとするかどうか。
さて、「何になるか」という問いかけは、「卒業後具体的にどんな職業に就くのか」、と言う意味にも、「どんな意味があるのか」と言う意味にもとれる。で、いま、多くの大学が、前者、つまり、「ここで学んで卒業したら、こういう具体的な仕事の役に立ちます」、と言うことを解りやすく説明することに腐心している。と言うより、そういう説明を求められているという強迫観念に駆られているように見える。「どんな学生を社会に送り出すのか」というお題もそういう文脈で出てきているのだろう。しかし、我々が示さなければならないのは、実は後者ではないのか。大学に入ってくる人たちは、実に様々で、一般的な高校卒業者だけを学生と位置づけていたのでは目標を見誤ることになる。かといって、彼らが中心に位置づけられるのも確かで、卒業後の進路について無責任ではいられない。そんな中で、大学が示すことが出来るのは、“学び甲斐”、その物だろうと思う。“仕事”も“生き甲斐”も、その延長線上にある。
活字離れ、理科離れ、数学離れに学力低下、様々な問題が指摘され、処方箋も提示されている。朝の読書や、声に出して読むことや、読み書きそろばん式の教育の実践例が高々と喧伝される。しかし、それを制度化しても失敗するところの方が多いだろうと思う。相手は生身の人間なのだから、同じ方法論が必ず同じ成果を生むわけではない。当たり前のことだ。問題は“方法論”ではない。“学び甲斐”その物を感染させること、つまりは、教育する側が、“学び甲斐”の感染力を最大限に発揮すること。それは、つまり“教え甲斐”を知っていることだ。学ぶ喜び、教える喜びを知っているものが、そこにいて、楽しく生きているのを見れば、それは学習者に感染する。教育実践の成否を分けるのは、多分それだ。他人の実践例を見て、二番煎じで自分もうまくいくかも、なんて考えるのは甘い。大体、同じ方法が次の学年には通用しないことさえよくある話だ。自分が目の前の対象と正面から向き合って、試行錯誤して、生み出した答えが、やっぱり正解。当たり前すぎる答えだけれど、そういうことだと思う。そういう工夫をすることに喜び感じない人は、多分教師に向いていないし、そういう人に教育を受ける人たちは哀れとしか言いようがない。FDが、そういうレベルで何が出来るのか、疑問無しとしない。そして、更に付け加えるなら、いま、教師たちから“教え甲斐”を奪うような好ましくない流れが大きくなりつつあるような気がしている。
教育論に話が逸れてしまった。言語文化学科に話を戻そう。なお、この辺りの問題についてはこちら・この辺も参照のこと。
*言語文化学科では、職業教育に特化した教育は行わない。
大学が、専門学校や各種学校と決定的に異質なのは、専門外の講義を必修科目として履修させている、ある種の総合性、教養主義的な性格を持っているところにある。それは、基本的に単科大学でも同じだろう。それそのものを否定してしまったら、各種学校・専門学校に対する敗北を認めることになる。現実に、特定の力をつけたいために、大学に通いながらそれらの学校に通う学生は少なくない。おそらくそういう学生の中には、大学の授業はさぼっても専門学校では熱心、と言う人も多いのではないか。それでも大学生をやめないのは、学位が欲しいからだろう。就職先では大学で学んだことなど全然通用しないと言われる。なのに大卒者を求めてくる。ここに大きな矛盾がある。大学教育を否定するなら採用側は大卒枠を撤廃すべきだし、教養教育を否定するなら文科省は各種学校・専門学校にも学位授与を認めるか、学位制度その物を見直すべきだ。
そうじゃない。こういう学科で学ぶことには、積極的な意味がある。
言語文化学科の卒業生は、かつては、高等学校の教員になる人が多かったのかも知れない。しかし、現在、大半は専門とは関係のない企業に就職している。それから公務員、進学。ジャンルの違う学校に入り直す例も毎年見ている。しかし、言語文化学科では、一般社会人に求められる論理的思考能力や情報処理能力などの教育は勿論十分に行うが、それ以上に特定の職業に限定した教育は行わない。学生が関心や能力に応じて各教科の教師になれるような体制は整えるが、教師の養成が学科の教育目標というわけでもない。同様に、様々な資格・検定試験向けに特化した授業も行わない。
近年、検定合格者数を教育実績としてカウントしようという動きがあるが、これには意味がない。と言うより、それが、「学力」をねじ曲げている。「一流企業就職者数」「一流大学進学者数」を進学の指標にしてきた社会と同様の問題がある。それは、目標ではない。大体、一流って何だ? 結果はついてくる。
こう書くと、高度に専門的な職業人や、“その道のプロ”を生み出すことが出来ない負け惜しみのように見えるかも知れない。文学をやってもツブシがきかないと言われる。しかし、逆に、どこでも通用する基本を身につけさせているとも言える。どの分野に進んだとしても、その分野の専門的な知識・技能を素早く修得し、実際に行動すること、問題を発見し、論理的に解決し行動に移すこと、新しい情報を整理して活用することその物の重要性に変わりはない。 かといって我々は、性能の良いコンピュータを量産しようと言うのではない。飲み込みの早さや与えられた作業をこなす効率の良さを無視することは出来ないが、その上で、言語文化学科は、想像力を重視する。物事を様々な角度から批判的に解釈する力。従来の発想では見えない問題点を発見し、思いがけないものを関連づけて解決する力。そして、それらを様々なメディアを通して誤解のない形で伝えあう力。こうした力は、語学や文学をはじめとする言語文化を主体的に学ぶことを通して修得される。それは、人間として豊かに生きる力その物でもある。
*言語文化学科の教育目標は人生を豊かにすることである。
“豊かな人生”とはなにか。そこから問われなければならない。経済的な成功、高い身分や権力をいうなら、話は簡単だ。それを完全に否定するつもりはない。しかし、それが、多くの人々の犠牲の上に成り立つことを想像できないのでは如何にも貧しい。富も、身分も権力も、他者との関係の上にしか存在しない、相対的なものだ。そのことに気付かず、或いは知りながら目を背け続けて“豊か”になることに何の意味があるのか。
アメリカの正義が唯一の正解で、アメリカ的民主主義・資本主義が絶対的に正しいライフスタイルだとして、世界中の人々すべてが、そういう主張をしているアメリカ人と同じ質の生活をしたら、誰が石油を掘り、米を作るのか。どこにゴミを捨てるのか。正義も真実も、相対的なものでしかない。
言語文化学科の教育目標は、学生が日本語や外国語の仕組みについて知り、日本や外国の言語文化の諸特性を解明し、他者の文化や発想を認識し学ぶ事で、自己を多角的に捉え直す想像力を養うことである。 異質な物を理解し寛容に受け入れられる能力、固有の文化を多様なままに尊重しつつ誤解のないコミュニケーションを可能にする能力、高い解釈と表現の能力。このような力は、社会の表層の流れに囚われない本質的な素養としての生きる力であり、社会の変化や科学技術の進歩にも対応でき、そして、何よりも、卒業後の人生をゆたかなものにしてくれるだろう。言語文化学科が送り出す幅広い文化的視野を持つ国際性ゆたかな社会人とは、他者と自己との関係を的確に捉えて生きていけるような社会人であり、国と国との問題だけでなく、世代・地域・性・職業・身分・障害の有無……といった、人生の途上で経験する他者との多様な接触に柔軟に対応できるような社会人である。
一見、リアルな社会生活にコミットしているようには見えない文系基礎学の知が、社会の中で生きていく自分たちの人生にとって必要不可欠な物であること。そうした知の結集(膨大な情報の整序、幅広い想像力、論理的な思考力)によって、個別的な視野からでは解決できない(そもそも見えてさえいない)課題を発見・解決することが可能であること。それによって、“その道のプロ”を目指さない人たちが言語文化学科の専門的な学問を学ぶことの意義を確信すること、言語文化学科の教育はそのためにある。
*語学教育は人生の可能性を切り拓く。
言語文化学科では、コース毎に語学教育に特に力を注いでいる。外国語教育や母国語である日本語の高い能力の育成を特に重視するのは、単純な技術の問題ではなく、外国語や日本語の知識がその学生のこれからの人生における可能性の扉を開くことを期待してのことである。知識は言わば扉の鍵であり、扉をひらけば大きな世界がひろがる。学生にこの大きな世界の存在を教え、旅立ちの準備をさせることこそ、言語文化学科の教育の目標である。
繰り返すまでもないが、ここには外国語教育の専門学校とは別の存在理由がなければ意味がない。実際、専門外の授業も必修なのだから、“語学力”を修得するために十分な授業時間を確保するのは困難だ。我々は、入り口(出口?)を示すだけだ。言葉を学ぶことで広がる可能性について、自ら、身を以て示すこと。“学び甲斐”を感染させること。それに尽きる。
外国語にせよ母国語にせよ、言葉は言葉として自立しているわけではないし、誰かが決めた規則に従って構築されたものでもない。言葉の世界に、“正しい”や“美しい”は存在しない。その言葉を否定することは、その言葉を流通させている文化を、その言葉を使うその人を否定することだ。立ち止まって想像する力が必要。私達が外国語を学ぶのは、それを駆使して新しい出会いを求めるからだ。それは勿論その通り。しかし、その過程で、その言葉がなぜそのように在り、或いは消えたのか、考えてみること。自分の言葉を省みること。
*文学教育は他者と出会い、自己と出会う。
文学教育、或いは“文学”を特別視する気は全くない。このことについては、このページの上の方や私の「文学概論」や教養科目の文学・文学への誘いの講義録を参照して戴きたい。しかし、一方で、“文学”を擁護する必要も感じている。
世の中では、文学不要論が力を得つつある。国語を体育のように体で憶えさせようと言う、教育勅語的発想が喝采を得て迎えられている。解りやすく誤解のない表現だけを良い文章とする、コミュニケーションの道具としての言葉を教育しようとする動きがあり、英語公用語論がある。さて、芸術の一ジャンルとしての文学は何処へ行くのか。もはや大学で学ぶようなことではないのか。
“文学”こそが、“対話”の根幹を担うものだということは、疑いようがない。世の中には様々な学問がある。私達の生活を便利で快適なものにし、目に見える富をもたらす、解りやすい学問もある。人文系の基礎的な学問は、そうした実用性の高い具体的な学問に対して補助的な位置づけをされがちだ。それはそれであながち間違った評価だとは言い切れないだろう。空気のように絶対的に不可欠のものである、と言う意味で。そして、それは、いまや自然に身に付くものではない。だからこそ、その重要性をしっかり認識して欲しい。誰かの“幸福”は、誰かの“不幸”かも知れない。正義も、真実も、そういう天秤の両端、薄い紙の裏表かも知れない。文学とは、つまりそういうことに思いをはせる技術なのだと、私は考えている。必要なのは、「魚は僕らを待っている」という独善に疑問を差し挟み、大漁の海を見て魚たちの弔いを想像する力である。
個々の“文学”作品は、ことさらに“平和”とか、“正義”とかについて語るものではないにしても、読書体験・表現体験を通して、様々な発想と出会うことが出来る。それらが、なぜそうあるのか、そして、自分は、それになぜ感動し、或いは感動し得ないのか、そしてその思いを、誰に、どう伝えるのか。ストレートで誤解しようのない表現がすべてなのか、そもそもそういう表現があり得るのか、譬喩や修辞は何を伝えているのか。文学は、人間の想像力を磨くための大きな力を持っている。
人を好きになった時、自分の内面を整理し、相手を想像し、自分の思いを伝えるために最も相応しい表現(言葉だけではない、場所・時間・服装・BGM・贈り物・……、これら、意味のある全てが言語文化である)を探すだろう。相手の反応を誤解なく解釈するのも難しい。これは、恋愛だけの問題ではない。解りやすく、誤解のない唯一絶対の表現など、異文化が触れ合う世界には永遠に存在しない。そのことをまず想像する必要がある。テロリズムを解決する唯一の方法が暴力でしかないと考える前に、考えることがあるはず。
*目標実現のために少人数教育を行う。
少人数教育のメリットは、一人一人の学生の個性や才能に個別に対応し、十分に成長発展できるように援助する効率の良さだと考えられている。それは間違いではない。実際、多くの語学学校が、マンツーマンや極少人数での教育の教育効果の高さをうたっている。大教室での授業では、きめの細かい対応は出来ない。
しかし、マンツーマンが理想か、と言えば、必ずしもそうではない。ある種の知識の伝授においては、大教室で数百人の講義、一斉の試験による評価も意味がないわけではないだろう。実際、人文学部内でも、そういう授業を多く開講している学科はある。
ただし、言語文化学科は、そういう種類の知識の伝授を目標にはしていない。答えを伝えるのではなく、考え方、想像する力、学ぶ喜び、伝えたいのはそういうことだ。当然の、絶対的な正解など、そもそもはじめから存在しない。そういう学科、そういう学問の目標を実現するためには、多すぎる受講者は論外として、少なすぎても意味がない。想像力を高め、“学び甲斐”を感染させるには、不断のコミュニケーションが必要である。それは、教師と学生との間だけでなく、学生同士にもなければならない。同じ講義を受け、同じ作品を読みながら全く異なる思いを抱く他者。同じものを見て表現しているつもりで全然違う表現をする他者。そうした人たちと実際に出会い、議論すること。殆ど同じ様な人生を歩んできたと思っていた友人の思いも寄らぬ発想との出会いは、実人生の中では、場合によったら決定的な訣別を招くかも知れない。しかし、授業でなら、その原因を探り、想像し、共有し、理解しあうことができる。授業はそういう他者との衝突、異文化接触への訓練の場でもある。少人数教育は、そのためにある。
寄付講座の提案
大学に対する外部資金の導入は、理系の実用的な学問における共同研究等での産学連携を中心に行われています。加えて近年では、企業等からの講師派遣・資金援助による「寄付講座」が、理系のみならず、社会科学系でも盛んになりつつあります。人文科学系でも例がないわけではありませんが、大きな流れにはなっていません。これもまた、実用性・経済性を重視する大学や社会の状況と無縁ではありません。こうした現状に一石を投じるためにも、文科系の教育の充実を図るための資金提供を御願いしようと思い立った次第です。実現すれば、学内外に与えるインパクトは相当に強力であろうと想像できます。
寄付講座は、大学の予算によらず、講座に係る費用を寄付という形で提供をうけて開講するものです。企業等が直接講師を派遣する場合もあります。必要な経費は、交通費・宿泊費・教材費・事務費などを考えると一定ではありませんが、現行の非常勤講師謝金は半期の授業でおよそ20万円、通年で40万円です。
講座内容
言語文化学科に対する寄付講座ですから、学科の理念に適ったものでなければなりません。また、単独の企業や個人が恒常的に担当するのも問題でしょう。そうした事情を考え、以下のような2種類の講座を考えました。それぞれ、言語文化学科共通の自由科目として半期分(15コマ)を毎年開講することを目指します(これには学部規則の一部改正が必要です)。
→『学生便覧』参照。
A「静岡の文化」
実用性・経済効率に囚われることなく、文化を学ぶことの重要性を認識すること。特に、地域に根ざした伝統的な芸術・芸能等を、その担い手自身から学ぶことで、「駿府・静岡」という土地の持つ特性を認識すると共に、伝統文化の地域社会との関係や、それを継承していくことの重要性について考える機会とする。
講師は、芸能・工芸・芸術などの伝統文化に関わる分野の他、郷土文化史の研究家、地場産業関係者等、地域において様々な分野の現場で活躍する方々に依頼。
B「情報意匠学」
言語文化学科の学問の実用編として展開。自分たちの学問が、実社会の中で具体的に活かされるという実感を持てる内容を展開し、実用的な意義を確認すると共に、基礎学としての文学や語学を含む言語文化学科の主要なカリキュラムの重要性に対する認識を高めることも目的とする。
講師は、編集者・報道・放送・娯楽・芸能・文芸・芸術・博物館・服飾・料理・化粧など、様々な「情報」を言語文化的な表象として扱える方々に依頼。理系も可。
*勝手な考えですが、この科目に関しては、当面平野雅彦さん御自身、乃至平野さんを中心にした企画を御願いしたく考えています。
勿論、私たちも、こうしたテーマに興味を持ち、研究・教育の場に活かしていく必要はあると認識していますが、こうした授業は、旧来の「文学」「語学」畑で育ってきた我々専任教官では、十分な効果が望めません。そこで、非常勤講師として、学外で活躍される方をお招きすると言うことです。
運用
寄付母胎(窓口)
学外の窓口を「シズオカ文化クラブ」とし、県文化財団・市文化振興財団等とも連携しながら、様々な企業・文化団体等からの講師や資金の提供を御願したいと考えています。従って、講座の名称は「シズオカ文化クラブ寄付講座」となります。
これは、文化クラブが組織として寄付するものでも、会員に限定するものでもありません。文化クラブ会員以外からも資金を募ります。
シズオカ文化クラブは、現在の静岡を支える様々な職業の方々が集まり、静岡の伝統文化を発掘し、支える活動を続けています。文化クラブと寄付講座の理念は、大きく重なり合っています。このような理念と実践を、実際の教育現場に反映させ、地域の活性化に活かしていくために、文化クラブと言語文化学科が連携することはとても有意義だと考えています。
実務
言語文化学科内の寄付講座窓口(当面は小二田を含む)と、文化クラブの寄付講座担当窓口が連携し、寄付講座事務局を作り、授業の企画・講師の選定・資金協力の御願い・資金の運用等を担当します。
個々の授業は、最終的には人文学部が承認することで正式に単位を出す科目として運用可能になるわけですが、その前段階で、受講生に何を学んで欲しいか、そのためにどの様な講師を依頼し、授業を企画するかと言う問題についても、事務局を通じて様々な計画を収集し、議論を続けます。こちらから依頼するだけでなく、公募も考えられます。
講師の選定は、通常の非常勤講師と同様、学部教授会の審査が必要ですが、学歴よりも実務の実績を重視します。また、毎週決まった時間に出勤し、15回の授業を不足無く担当し、正当に成績評価できる人物であることも、必須の条件です(例外的に集中講義:9月下旬・12月下旬の四日間で15回分の授業を行う物も認めます)。
授業に当たっては、学科教官を一人ずつ配置して、事前に授業計画について十分に検討し、詳細な講義概要(→『シラバス』参照)・評価基準等を作成するほか、必要に応じて担当教官が授業を補佐します。
これらは、言語文化学科の責任科目として開講しますが、教育効果を考え、受講者数に制限を設けた上で、他学科の学生の受講も認めます。また、伝馬町の再開発ビルでの開講や土曜開講も視野に入れ、社会人や高校生の受講も可能にします。
資金は、前述の通り年間40万円以上必要です。窓口を通じて募り、不足の場合は半期のみ開講と言う可能性もあります。逆に、余剰金が出た場合には、遠来の講師の方の交通費・宿泊費、教材費等に使用するほか、次年度に繰り越したり、シンポジウムや報告書の作成に宛てたりすることも可能でしょう。
基本は企業・団体ですが、個人として、一定額を寄付することで、年間の受講料を無料にする「聴講会員」等を設けても良いかも知れません。これは、単位を認定しない「聴講生」の形。講義を聴くだけで、成績評価・単位認定はしません。おかしな話ですが、設備や教材など、付帯的な資本のことを考えなければ、例えば一人1万円の寄付で40人いれば通年の授業は可能と言うことになります。
例えば以下のようなイメージです。
賛助会員
企業・団体・個人を問わず、一口5万円/年。講義概要・パンフレット等に賛助会員名を明示。授業計画等に参加。団体構成員の聴講(成績評価・単位認定なし)。
聴講会員
個人。一口1万円/年。寄付講座及び個別に認められた言語文化学科の講義科目について、一年間の聴講(成績評価・単位認定なし)。
*単位の必要な場合は、「科目等履修生」として申し込みが必要。この場合、授業料収入は、国庫または法人としての大学行き。
*この資金調達案については、学部長・事務長から、法人化後には可能だろう、という評価を戴いています。
*「科目等履修生」として取得した単位は、三年次編入等で正規の学生になった場合、卒業単位として認定することが可能です。
*鈴木さんから、民間のカルチャーセンターとの連携を既に行っている名古屋大学などの実例を教えていただきました。
*NHK文化センターでも行っていることですが、市民講座の会員に各種特典を設けることは、私学にも実例があります。静岡でも、こうした個人聴講会員に対して、市内(県内)の文化施設や商店等での割引などがあれば、相乗効果が見込まれると思います。
*こうした特典のことも考え、会員に金額に応じた階級を設けることも可能かも知れません。
*賛助会員の中心をなす企業・団体にとって、即効性のあるメリットは、構成員が聴講することによる学習と社会的なイメージの向上以外には、それほど多くはないように思います。
*ただし、連携を通じてお互いの情報やノウハウを共有できるようになれば、外国語・外国文化、日本語・日本文化に関する情報、会話・文章表現、文書作成等、講義その物にとどまらない様々な具体的な効果が生まれてくると考えています。
まとめ
人文学部の場合、法学科・経済学科は、早くから民間の企業人を非常勤講師として採用しているほか、今年は、企業の提供する冠講座(金融論特論 野村証券㈱提供)も行っています。また、近年は、インターンシップを取り入れ、将来は卒業単位として認める方向で動いています。
社会学科は、フィールドワーク実習を中心に、学科の研究・教育の特徴を示すよう、改革を進めています。
言語文化学科でも、組織再編を含む抜本的な改革が必要だという認識はありますが、全学の外国語教育を担う立場でもあり、組織的な改革が全学にも影響を与えてしまうため、身動きの取りにくいと言う事情もあります。そうした中で、学科の研究・教育の特性を広く学内外に理解していただくために、こうした講座の開設は重要で、今後の学科改革の方向性を示す物にもなると考えています。
言語文化学科の学生もインターンシップには参加していますし、就職後に役立つ資格に関係する授業などを履修することは大いに推奨しています。しかし、現状では、卒業に必要な単位として認めることには反対しています。それは、全ての学生に対して平等に機会を与えた上で、学科組織として、学科の理念に適った授業を計画的に行い、個々の学生に対して責任ある成績評価をするという仕組みが不完全だからです。むしろ、今回提案させていただくような、学科と地域とが、学生に対してどの様な授業を提供するのか、しっかりと協議した上で、責任を持って開講する仕組みが重要なのではないかと思います。
ここを突破口に、採用する側の立場として、大学で何を学ぶべきか、と言う問題を、直接授業設計に活かすことも可能だと考えています。
小二田 誠二 KONITA seiji
静岡大学 人文学部 言語文化学科 助教授
少しだけあとがき
結局、学部、学科からは、言い出したお前がやれ、専門外の授業は協力できない、と言われ、「静岡の文化」は最初から最後まで私が担当することになった。それで、非常勤講師料は情報意匠論のみ、半期分で済むことになった。事務局は当時の静岡市観光協会の有志が担当してくださった。途中に出てくる伝馬町再開発ビル、というのはペガサートのことで、開館当時、静岡大学は無償で利用できたように思う。それで、「静岡の文化」は当初、昼間部の授業なのに特別に夕方、ペガサートで開講し、社会人と現役学生が一緒に受講した。
ただ、様々な問題があって、受講生ではなく、地域の様々な組織と連携するなど、毎年仕掛け方を変え、最終的に所謂フィールドワーク型の授業になっていった。そのあたりのことは、ブログに少し記録が残っている。