戦前静岡茶広報紙の一場面(4)
瀧恭三……の前に
本連載の第一回で、「牧野原物語」の作者、瀧恭三について私は、
とだけ書いて、文字通り棚上げしていた。「茶業そのものを本業とする人ではないように見受けられ」というのに根拠がなかったわけではないが、確証が在ったわけでもない。
改めて調べてみると、予想通り、どころか、かなりの大物だったのだが、その割に現代では知られていないようにも思われるので、少し詳しく整理・紹介してみようと思う。
『茶業界』主筆
上に引いたように、瀧は業界誌『茶業界』の主筆を27年間にわたって務めた人物である。まず、その、最初、8巻12号(1913年11月)を確認しておこう。
巻頭言として「禍を転じて福と為せ 本年度製茶貿易の回顧」を掲載したあと、前号までの主筆高木来喜「告別の辞」に続いて「挨拶に代へて」と言う短文がある。先ず、これを引いておこう。
当然のことながら、本人の挨拶文にプロフィールは掲載されない。ただ、謙遜とは言え、茶に詳しくないと言っているのは注意が必要だろう。
次に、あらためて高木の文章から。
高木来喜
ところで、またしても脇道にそれるが、前任者高木来喜とはどういう人なのだろう。挨拶の中には『静岡新聞』の創刊に関わり、「鉄道其他一般事業界に足を投ぜん」とあり、この人も茶業界の人ではなく、むしろ実業家の面影が在る。幸い、高木の経歴については調査された論考が在るので、そちらを参考にしよう。
論文、というのは、小松裕「足尾鉱毒問題と学生運動」(文学部論叢(熊本大学文学会)65 1999)である。何故、この論文に高木の経歴が掲載されたかと言えば、その「学生運動」の渦中の人として、田中正造に「被害者ノ恩人」とまで言われた人物だったからである。
いま、高木に関する個所の全文を引用する手間を厭い、抄出して略歴を作ってみる。
『茶業界』は、なんと個性的な人を主筆にしていたことかと、おどろくばかりである。
ところで、上記論文は99年のもので、現在のような検索環境は整っていない。今、改めてNDLデジタルで検索してみると、僅かながら情報を追加することが出来る。年代順に並べてみよう。
一旦ここで切ろう。最後に挙げた『静岡今昔物語』には、
「ついで大正四年三月の総選挙には尾崎一,〇三一票、松本五五三票、高木来喜一五票で、松本は惨敗した。僅かに十五票しか獲らなかった高木来喜という男は、明治末期静岡民友新聞の主筆として来住した男で、雄弁ではあつたが才子肌の軽薄なところがあつて貫禄が足りなかつた。従つて尾崎と松本の間に起つても問題にならなかつたのである。」とある。著者の村本喜代作は、山雨楼と号した文筆家で、政界ゴシップを得意とした、癖のある人物で、そのまま受け取って良いかどうか迷うところである。
そして、その前、市制五十周年の写真帖には、貴重な情報が在る。生年月日と写真が掲載されているのである。『市制施行五十周年静岡市会記念写真帖』 写真・経歴。
上記、小松論文で消息がつかめなかった『茶業界』主筆降板後、彼は市議会議員になっていたのである。想像していた風貌とは違う。そして、若い。明治12年というから、1879年生まれ、『茶業の友』改め『茶業界』創刊の年は31歳。主筆を降板して政界に転じたのは34歳であった。
その後の高木
大正4(1915)年以降、高木の活動はつかめなくなる。しかし、同姓同名の人物が、新潟県長岡市に出現する。
高橋政重 編『越佐案内』(北越公友社 1922)所収の広告。
珍しい名前、とはいえ、熊本出身の活動家、政治家にして『茶業界』主筆を務めた人と、長岡の雑貨商が同一人物だと言えるだろうか。普通に考えればあり得ない話なのだが、ここから更に話は判らなくなってくる。
『憲政 = The Kensei』6(8)(憲政会本部 192308)所収「北陸遊説閑話」(山田毅一)には、1923年7月、新潟県下、おそらく柏崎での演説会場に「長岡から高木来喜君も来て居る」とある。長岡市内に、同姓同名が居る確率は如何ほどか。
たとえこの二人が同一人物ではないにしても、当時、長岡に、政治活動をしている高木来喜が居たのは事実である。長岡の高木来喜は、例えば
大西比呂志「1920年代の立憲青年党――その連合と分解の過程」(『早稲田政治公法研究 = The Waseda study of politics and public law』(30) 早稲田大学大学院政治学研究科 199001 所収)
伊藤隆「高野清八郎と立憲青年党運動」(上・中・下)(『史』(59~61)現代史懇話会 198511・8604・8607 所収)
あるいは、伊藤の紹介する全国立憲青年同志会の『新使命』記事などで、長岡革新会、或いは日本海青年党連盟の主力メンバーとして散見するのである。
『新使命』2(12)(192512)によれば、この年11月1日、金沢市で開催された「日本海青年党聯盟発会式」には、新潟代表として出席し、「第二に入れる青年党」という演題で発言している。
国会図書館内限定資料では更に情報がありそうだが、さしあたり、ネットで調べられるのはこのあたり、昭和初期まで。小松裕が「足尾鉱毒問題の研究者にもほとんど知られていない無名の存在」と評した高木来喜のその後は、ゆっくり探るしかなさそうだ。
ところで、高木来喜を調べていた小松裕は、元熊本大学教授、ウィキペディアによれば、「2015年3月25日 - 肺がんにて熊本大学文学部長在職のまま逝去」の由。田中正造の研究だけでなく、在日朝鮮人問題にもコミットした学者・活動家であったらしい。54年生まれと言うから存命ならまだ70に届かない。彼の研究を継いで、高木を調べた人が居たかどうか。ここまで判りました、とお伝えしたかった。
さて、瀧恭三を紹介するつもりが、前主筆高木来喜だけで長くなってしまった。次こそは瀧について書こうと思うのだが、彼もまた、私にとっては高木に劣らず興味深い人物で、情報量も多いので整理に時間がかかることが予想される。
気長に続けるとして、今回はここまで。