二冊目の署名本
元来収集癖がある訳ではなく、文学コレクターのぶの字もない自分だが、西村賢太先生に関してだけは異常なまでの物欲を発揮してしまう。
初めて西村賢太先生の署名本を入手したのは今から約一年前、先生の作品を初めて読んでから半年程経った頃だった。
神保町に初めて行き、どこの店に何が置かれているのかも分からぬまま古書店を一軒一軒パトロールしていったが、どの店にも西村賢太先生の作品は置いておらず、半ば諦めかけていた。
最後と決めて入った店にも西村賢太の名前は見当たらなかったのだが、何故かその時だけは諦めきれずに店員さんに尋ねてみる気になり、職人気質の匂いがぷんぷん漂ってくる店主らしき老爺に
「すみません、西村賢太は置いてありますか」と恐る恐る尋ねたのだ。
すると老爺は帳場の裏にある小さな倉庫のような場所に無言で歩いて行き、一冊の単行本を持って私のところへ戻ってきた。
そして、その単行本の表紙を私に見せながら、
「今は芥川賞を取ったこれの署名本しかないね」とぶっきらぼうに言うのである。
「芥川賞を取ったこれ」とは勿論、【苦役列車】の ことである。
私が初めて触れた西村賢太先生の作品であり、そのあまりの面白さに衝撃を受けたあの苦役列車である。
突然訪れた好機に一瞬固まってしまった私だったが、老爺が差し出してきた苦役列車を受け取った瞬間我に返り、まずは表紙を開く。
するとそこには白いペンでハッキリと西村賢太と書かれている。
初めて肉眼で見た署名に感動しつつ、見返しに貼られた値札を見ると、一瞬にして感動から絶望に変わった。
そこには3万3000円と書かれていたのだ。
古書コレクターにとっては驚くことはない価格なのだろうが、古書には縁遠く、署名本の相場なぞまるで知らぬ私はそのあまりの高さに愕然とした。
(こんなの、買えねえよ……)
往時は珍しく正社員として働いていた私だったが、まだ働き始めて2ヶ月程しか経っておらず、ようやく入った給料も殆ど借金の返済にあてていたため、相変わらず金はなかった。
給料が入ったばかりで銀行口座には6万円弱入っていたものの、これを買ってしまうと3万円で1ヶ月を凌がないといけない。
それは流石に無理である。絶対に無理である。
が、気付けば私は老爺に伝えていた。
「銀行でお金を下ろしてくるので、待っていてください」と。
近くのATMで4万円を下ろした私はすぐに店に戻り、そのまま苦役列車の署名本を手に入れた。
紙袋を抱えて店を出ると、真冬だというのに汗をかいていた。
遂に手に入れたという感動と、買ってしまったという背徳感みたいなものがごちゃ混ぜになっていたのだろう。
兎にも角にもその時初めて署名本を手に入れ、今でも後生大事に自室の本棚に飾っている。
それから1年経ち、この1年間も貧乏無職(仕事は署名本を買った数ヵ月後に辞めた)なりに西村賢太先生の作品を集めてきた訳だが、先日自身二冊目となる署名本を手に入れた。
無論、金に余裕があったわけではない。
殆ど衝動的に買ってしまったまでだ。
金の話ばかりするのは嫌いだが、
苦役列車とほぼ変わらぬ値段である。
往時、曲がりなりにも働いていた自分でも苦しい値段だったというのに、無職では尚更苦しいのは自明の理だ。
5万5000円で買った【羅針盤は壊れても】のローンも未だ払い終えていないし、借金はあの頃より嵩む一方である。
しかし、買った後のカタルシスみたいなものが不思議と前回よりも強い。
それはきっと、前回よりも無理をしたからだと思う。
完全に破滅確定の貧乏人の発想だが、
私は無理をして買うからこそ意味があると思っている。
苦しい時こそ、自分の身銭を切って買うからこそ大切にするし、愛しいし、自分の血肉になる。
誰かに買ってもらったり、誰かのお金で買ったり、図書館で借りたりしたものは結局大して記憶に残らないものだ。
嫌ったらしい日雇いバイトを終えた後に自分への小さなご褒美として買って食べたコンビニの揚げ物とか、初任給で買ったスニーカーとか、どれだけ金があろうとああいうものには勝らないと思っている。
金がないからこそ、苦しいからこそ、その時買ったものや食べたものは一生忘れられないものになるのだろう。
とは云え、流石にもうこれ以上買ってしまっては完全に生活が破滅してしまうので、署名本の購入は暫く脳内から除外することとする。
前回購入した時もそう決意して、結局一年後にまた同じことを繰り返してしまっているわけだが。