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西村賢太作品の面白さとは
基本的に無口で根暗な私だが、西村賢太先生について聞かれると無駄に話しすぎてしまう癖がある。
西村賢太先生はおろか、読書すら全くしない友人や家族に対しても先生の作品について熱弁してしまうのだ。
そうすると決まって聞かれるのが
「西村賢太のどこが面白いの?」という質問だ。
この問いはファンの人たちの間でも必ず話題になるのだが、根がカッコつけにできている私はいつも「単純に面白いから」などと云う身も蓋もない答えを言ってしまう。
これは本音でもあるが、好きなものの好きな理由を考えるのも答えるのも無粋な気がするし、
語れば語るほど本心から遠ざかっていくような気がするのだ。
とは云え、それをわざわざnoteに書いても仕方がないので、今日はカッコつけを辞めて私なりの好きな理由を書いていこうと思う。
多くの人が西村賢太先生の魅力として挙げるものの一つに、文体がある。
大正期や昭和初期の作家が使っていたような語彙を駆使した古めかしい文体でありながら、落語の要素を取り入れたリズミカルな文体でもある。(らしい)
「マラ」や「ビニ本」などの一目見ただけで笑ってしまうようなワードと「嚢時」や「慊い」「爾来」などの一見読み方が分からないワードが混在するギャップがフックとなり、いい意味で読者を引っかからせる。
その引っかかりが少しずつクセになり、一度その文体に慣れてしまうと他の作家の文章がどうにも物足りなくなってしまうのだ。
悲劇的な出来事なのに面白く読めてしまうのはこういった文体とユーモアが散りばめられているからで、仮に先生と同じ出来事を経験し、同じように文章を書いたとしても絶対にこうはならないと思う。
ただの不幸自慢に終始し、決して私小説の体をなさないと思う。
こういったことは多くの西村賢太ファンが語ることでもあり、私もこの意見には一も二もなく同意するのだが、文体に関してはあくまでも魅力の一つであり、私が先生の作品を好きな一番大きな理由ではない。
そも、私は人並みに小説を読んできてはいるものの読解力は皆無のため文体のことなどよく分からぬし、純文学は太宰治ぐらいしか読んだことがなく、落語の知識もない。
そんな私がここまで西村賢太先生に踣り込んだのは、偏に作品への「共感」があったからだ。
西村賢太と北町貫多という人物に対して、共感以上の感情を抱いたからだ。
私が先生の作品に初めて触れたのは「苦役列車」だが、この作を初めて読んだ時、これは他人事ではないように感じた。
夜郎自大なことを言えば、「自分のための小説」のように感じた。
これは私だけではなく、きっと多くの西村賢太ファンが抱いたことのある感情であろう。
先生の読者の多くが「自分のための小説」と思っているはずである。
「夜更けの川に落ち葉は流れて」の解説で
OLEDICKFOGGYの伊藤雄和氏が以下のように記している。
「身に沁みる。凡てが。洗練された愚行は最早美しい。北町貫多は俺だ」
この一文こそが西村賢太作品の魅力を一番強く表していると思う。
「北町貫多は俺だ。」
この感情は私にも身に覚えがあるし、多くの読者が抱いたことのある感情だと思う。
もっと言えば、俺こそが北町貫多だ。と思っているはずである。
さらに言えば、俺がどのファンよりも北町貫多だ。と思っているはずである。
この共感性の高さと没入感こそが西村賢太作品の魅力だと私は思う。
無論、私は中卒ではないし父親は性犯罪者でもないし女性にDVはしないため、共感という言葉を使うのは些か烏滸がましい気持ちもあるのだが、作者と同じ経験をしていなければ共感してはいけないという決まりもないだろう。
先生が作品で顕にする鬱屈とした気持ちや周囲の人間への僻み、苛立ち、秋恵の些細な言動に腹を立ててしまう狭量さや感情の不安定さ、その全てに身に覚えがあった。あまりにもありすぎた。
何かがほんの少しズレていれば私も中卒だったであろうし(中卒が悪い事だとは全く思わない)、女性に暴力を振るっていた可能性もあるし(これは悪い)、逮捕されることになったかもしれないと思うのだ。
だからこそここまで好きになり、踣り込み、なけなしの金で作品を集め続けているのだと思う。
小説に限らず、幼い頃から自分が共感できない作品はどうも面白いと思えなかった。
音楽で言えば浮気やセフレなどを題材にした楽曲には嫌悪感すら覚える。
「結局モテてる奴の音楽じゃないか」と思ってしまうのだ。
だから映画もアクションやホラーなどにお金を払って見る意義がどうにも見い出せなかった。
リアリティのない作品の楽しみ方が未だによく分からない。
逆に自分が共感できる作品にはいくら払ってでも見たいと思う。
今までも「自分のための作品だ」と思ってしまうような音楽や映画に救われた夜が数え切れない程あったが、そのどれもが西村賢太先生の苦役列車に出会った時の衝撃には遠く及ばない。
ここまで自分事のように捉え、自分の生き写しのように感じた作品はなかった。
文体や構成に魅力があるのは当然のことだが、
それは面白さの一つでしかなく、私が先生の作品を愛する理由にはならない。
文体がどうの、構成がどうの、時代背景がどうのと云った表層的な評論はどうも胡散臭く感じてしまう。
それよりも、苦役列車を初めて読んだ時の魂が震えるようなあの感覚こそが本当だと思っている。
日雇いバイトの昼休憩の時に先生の作品を読んで涙が出そうになったあの感覚だけが真実だと思っている。
いつか先生の作品に共感できなくなる日がくるのだろうか。
先生の作品に共感できない人生の方が世間一般的には幸せなのかもしれないが、西村賢太作品を読まない幸せな人生よりも、西村賢太作品にすがりつくしかない不幸な人生を私は選びたい。
今日も失敗だらけだった。
きっと明日も失敗だらけだろう。
でも、それでいい。
失敗続きの人生だからこそ、西村賢太先生に出逢えのだから。