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承認欲求ポリス

私のXを見てくだすっている方はご存知かもしれないが、私はSNSを割と積極的に使っている方だ。
他の人の投稿等を見るのは勿論、noteは誰にも頼まれてもいないのに毎週書いているし、誰も聴いていないラジオを週に2回公開している。

で、そうなると必ず沸いてくるのが
【承認欲求ポリス】である。
【承認欲求ポリス】とは私が勝手に名付けただけなのだが、
「自分以外の人間が目立とうとするのを絶対に許さず、目立とうとしている人間の足を引っ張り、自分が気に入らない他人の行動は全て承認欲求や自己顕示欲というワードを使って揶揄する愚かな人間」のことを指している。
実際に私も今まで何度かこの承認欲求ポリスにネット上でも私生活でも取り締まられたことがあるのだが、その度に辟易する。
所詮奴らは最近になってようやくSNSの使い方を覚えた老爺か老婆だろうから相手にするのも馬鹿馬鹿しいが、最初で最後の反論をこのnoteに記しておきたい。


そも、SNSは自分のことを発信する場である。
本来であれば友人間でしか話せないこと、友人間でも話せないような自分の考えや意見を誰でも発信でき、似たような趣味嗜好を持った人たちと交流できるのがSNSの醍醐味であり趣旨だ。

そして、自分の目標や夢に対して最短距離で進める場所でもある。
今までは自分が創ったあらゆるものを誰かに見てもらいたい場合、プロになるしか道がなかった。プロになって初めて自分の作品が不特定多数の人間に触れるのだ。
しかし、今の時代は違う。
小説家を目指す人は自分の書いた作品をSNSに載せて誰かに見てもらうこともできるし、歌手を目指す人は自分が作った歌を載せることもできる。
簡単に誰かに感想を貰うこともできるし、上手くいけばそこからプロになる可能性だってある。
そう云ったことを考えればSNSで自分を発信するのは至極当然のことだし、私もSNSの使い方の「王道」をいっているつもりだ。

それにも関わらず、そう云った健全なSNSの使い方をしている人間に対して、承認欲求ポリス共はやれ承認欲求だの、自己顕示欲だのとそれらしい言葉を使って他人をこき下ろし、足を引っ張ろうとしてくるのだから迷惑極まりない。
こちらはSNSの正しい使い方をしているまでだし、SNSの恩恵を享受しているまでのことなのだから、それについてとやかく言われる筋合いは一切ない。
そして、大抵そういう奴らのSNSを覗くと誰にも相手にされておらず、人に噛み付くことしかしていないのだ。
結局、僻んでいるだけなのだろう。
本当は自分もチヤホヤされて承認欲求を満たしたいのに誰からも相手にされないから、正しく承認欲求を満たしている人間を妬んでいるだけなのだろう。
SNSをしている癖にあたかも自分は承認欲求などない振りをして他人を攻撃するのだから、本当に憐れとしか言いようがない。
最早腹も立たない。
可哀想な人間だなあと同情すら覚える。
嫌なら見なければいいだけなのに、わざわざ覗いて勝手に文句を言うなんて自分で自分のことが恥ずかしくならないのか甚だ疑問である。
寿司屋に行って「なんでこの店は寿司しかないんだ!」と怒鳴り散らかしているようなものだ。

また、自分の好きな物について発信すると、
「〇〇が好きなんじゃなくて、〇〇を好きな自分が好きなだけでしょ?」などとしたり顔で指摘してくる馬鹿もいる。
本質をついてやった気になっているのだろうが、〇〇が好きな自分が〜構文は擦りに擦られている。斜に構えたことを言うならせめて手垢だらけの表現ではなく、洗練された捻くれを発揮して欲しいものだ。
ここまでくると本当に救いようがない。
前提として、「○○を好きな自分の事が好き」の何が悪いのか。
好きなものを通して自分の事を好きになれるなんて素敵なことではないか。
少なくとも、好きな物に熱中している人間に対して冷や水をかけるような屑よりはよっぽどマシである。

私はSNSでよく物故私小説家の西村賢太先生について発信している。
本の感想を呟いたり、先生の作品についてnoteに書いているのだが、そうしていると先述したような馬鹿が「西村賢太を利用して自分をアピールしている」といった見当違いも甚だしいことを言ってくることがある。
説明するのも馬鹿馬鹿しいが、そも、私は西村賢太先生について発信するためにSNSを始めた訳ではない。
西村賢太先生に出会う何年も前からSNSをしていたし、西村賢太先生の情報発信botでもなんでもない。
故に、西村賢太先生以外のことも呟くし、自分のことをnoteにも書く。
これも至極当然のことだが、馬鹿は私のアカウントを西村賢太情報提供専用アカウントだとでも勘違いしているのか、「自我を出すな」「西村賢太を通して自分を語ろうとするな」という趣旨の意見を言ってくるのだから、閉口するばかりだ。
あくまでも私の生活の一部に西村賢太先生の作品があるわけで、作品の感想や先生への想いを語る上で、自我や人生の断片が顔を出すのは当然のことだろう。
文学研究者が書く論文ではないのだから、私情や個人的な想いが滲み出るのは当然のことだろう。
西村賢太先生を好きな自分に酔うためだけに、何十万円も注ぎ込める訳が無い。
わざわざ七尾まで行ってお墓参りする訳がない。
それすらも理解できない人間がどうやって先生の作品を読んでいるのか疑問でならない。
文字を目で追っているだけで作品の殆どを理解できていないのではないかとすら思う。


まァ、これだけ書いてもSNSに不慣れなジジババ共は理解できないだろうし、また見当違いな意見を言ってくるだろうから最早どうでもいいのだが、兎にも角にも自分が不快になるようなものは見なければいいだけの話だ。
承認欲求や自己顕示欲といった言葉を使って被害者面をし、他人を叩いて気持ちよくなるのは勝手だが、こちらとしては迷惑極まりないので金輪奈落関わらないで欲しい。
まず、奴らはSNSの趣旨と目的を理解するべきだろう。
最近ようやくSNSの操作方法を覚えたのだろうから、その上で趣旨や目的をインプットするのはその耄碌しきった脳味噌では難しいかもしれないが、これ以上人に迷惑をかけない為にも一度SNSについて学び直して欲しい。
SNSで承認欲求や自己顕示欲を満たそうとするのは当然のことなのだから。
人に迷惑をかけたり違法なことをしていない限り、承認欲求を満たそうとすることを咎める理由は一つもない。


承認欲求ポリスなる薄らとんかちの相手をするのはこれを以て最後にする。
馬鹿共の冷笑は放置して、これからも自分について、自分の好きなものについて発信し続ける所存。




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