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羅針盤は壊れても

自分が好きになった対象へのアプローチの仕方は人それぞれである。
他人の趣味や応援の仕方をとやかく言うのはナンセンスであるし、めいめいが好きなようにやればいいだけの話だ。
きっと一人ひとりにポリシーや流儀のようなものがあるのであろう。

で、「私の流儀」などと言うと少し大袈裟になってしまうが、私は好きになったものはとことん追求し、身銭を切るタイプである。
というより、気付いたら身銭を切ってしまっているタイプである。
勿論お金が全てではないし、お金でしか人や物の価値を図れない成金主義の馬鹿を私は毛嫌いしているが、お金というのはその人の情熱を推し量る分かりやすい物差しではあると思う。


私は約一年前に物故私小説作家の西村賢太先生に出会い、そこから作品をちょこまかと集め続けてきた。
亡くなったことで高騰化が甚だしい絶版本を集めるのはかなり厳しかったが、地道に一年間集め続けてきた。
と言うと、なんやかんやで稼ぎがあるんじゃないか?お金を持ってるんじゃないか?実家が太いんじゃないか?などと邪推されることもあるが、それは全くないことをここに断言する。

なんせ私は根がジョブホッパーにできている無職である。
今年の年収はせいぜい50万円程度であろう。
実家も特別太くはないし、親からお金を貰う機会もなければ、誰かに小説を買ってもらえる訳でもない。
時にお金を借り(基本的にこのケースが多い)、時にローンを組み(二番目に多い)、時に働き(一番少ない)、全て自分の身銭を切って集めてきたのだ。
ろくに稼いでもいないのに小説を買い続ける私に周囲の人間は呆れ返っているようだが、私としては無理をするからこそ意味があると考えている。
どこかでも書いたが、金持ちの道楽には一切の価値がない。
大した情熱も思い入れも持ち合わせていないにもかかわらず、お金だけでものをいわせるような小金持ちコレクター被れのことを私は心底侮蔑している。
限られたお金の中で買うから意味があるのだ。
無理をした分だけ自分の血となり肉となるのだ。

こういった貧乏人まっしぐらの危険な思想を基に、ずっと欲しかった西村賢太先生の小説を遂に入手した。


羅針盤は壊れても

2018年に講談社から出版された「羅針盤は壊れても」である。
メルカリにて5万5千円で購めた。
古書を彷彿とさせるような上製函入りの豪華レトロ仕様で、特別折込み付録も付いている。
該書は戦前探偵小説出版のメッカ、春秋社の本をイメージして作られており、先生は「一私小説書きの日乗 堅忍の章」で以下のように記している。
「これまでの五十二冊の拙著も、いずれも本当にうれしかったが、ここまで飽くことなく自著をひねくり廻し続けるのは、十二年前の最初の著書『どうで死ぬ身の一踊り(講談社)』以来のことだ。この本の刊行に携わって下すった、すべてのかたに感謝しつつ杯を重ねる。」

それ程先生にとって思い入れのある一冊だったのであろうし、表題作の「羅針盤は壊れても」に登場する北町貫多は23歳であり、今の私とほぼ同い年である。
そういった側面からも喉から手が出る程欲しかったのだが、如何せん値段が高すぎる。
半年程前から買うタイミングを窺っていたものの、当時も平均すると4万円程で売られていた。
流石にこの値段では買えないと思い指をくわえて見ているだけだったのだが、そうこうしているうちに更に値段が吊りあがっていき、今では最低でも5万円程まで高騰している。
既に絶版しており部数も少ないため、これから値段が下がるとは考えにくい。
むしろ高騰していく一方だろう。
既に有り得ないほど高騰しているが、これ以上高騰すると流石に手が届かなくなってしまう。
そう考えると、該書を入手できるのは今がラストチャンスなのかもしれない。
と、半ば無理やり自分を言いくるめるようにして購入ボタンに手を伸ばしたのであった。
いくらローン払いとは云い条、6万円弱の小説を購めたことはなかったので流石に手が震えたが、自宅に届いて実物を触ると心の底から買ってよかったと思えた。

私は収集癖もなければ文学コレクターでもないし、経済力も皆無に等しい。
しかし、これからも先生の作品を買い続けるつもりだ。
無理をしてでも買い続けるつもりだ。
ファン同士のくだらない争いの為でもなく、
誰かに自慢する為でもなく、自己満足のために。
自分を救ってくれた先生に少しでも恩返しをするために。

ろくに働きもせず好きな作家の小説を買い続けるなど鼻白む人間が殆どだろうが、何も問題はない。
自己満足とは、他人からの嫌悪があって初めて成り立つものなのだから。

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